符の名において
食卓に並んだ料理は、どれも素朴だった。
湯気の立つ汁物と、焼き魚。
それから、小さな皿に盛られた漬物。
恒一は、箸を取る前に、ふと隣を見た。
「これ」
短く言って、漬物の皿を清磬の前へ差し出す。
「……好きだっただろ?」
清磬は、すぐには手を伸ばさなかった。
漬物に視線を落とし、それから、卓に並ぶ他の料理へと目を移す。
「……これも」
一拍置いて。
「お前が、作ったのか」
恒一は、ただ頷いた。
それで十分だったみたいに、清磬は箸を取る。
一口。
表情は変わらない。
声も、何も言わない。
けれど。
二口目が、ほんの少しだけ早かった。
箸の動きが、わずかに迷いなくなる。
……それだけで、分かってしまう。
感情が薄いんじゃない。
表に出さないだけだ。
食卓に、静かな時間が流れる。
誰も急かさない。
誰も、話題を探さない。
――でも。
清磬が、箸を置いた瞬間。
空気が、変わった。
ほんのわずか。
でも、確かに。
背筋が、自然と伸びる。
「――では」
声が違った。
さっきまでの、淡い私的な調子じゃない。
修行中に身につけた、硬く端正な響き。
「本件につき、
玄雷音符の名義をもって、
天風立華個人に、協力を請う」
師姉さんは、何も言わない。
ただ、その目は完全に“話を聞く側”のものになっていた。
「邪仙が、一体。
日本へ潜り込んだ」
淡々とした報告。
「正体、目的、術系統。
現時点では、いずれも不明」
……邪仙。
その言葉だけで、胸の奥が少し冷える。
「すでに、数名の仙人が接触している。
いずれも、撃退された」
清磬の声は、揺れない。
「玄雷音符に戻った者たちの報告では、
相手の位階は――」
一拍。
「天羅萃華と同等、
もしくは、それ以上と推測されている」
師姉さんは、驚いた様子も見せず、ただ静かに頷いた。
「……なるほど」
それだけ。
否定も、肯定もない。
恒一は、黙って聞いていた。
表情は変わらない。
でも、その沈黙が、答えの代わりみたいに感じられる。
「本件は、玄雷音符としても軽く扱えない。
だが――」
清磬は、はっきりと言った。
「仙洞としてではなく、
天風立華個人に、対応を願いたい」
その言葉で、はっきり分かった。
これは命令じゃない。
でも、お願いでもない。
選ばれた、ということだ。
恒一は、少しだけ視線を落としたあと、清磬を見る。
「……分かった」
短い一言。
でも、迷いはなかった。
その瞬間。
私は、自分の名前が、
一度も呼ばれていないことに気づいた。
――ああ。
今の私は、まだ。
この話の、当事者じゃない。
それが、少しだけ悔しくて。
同時に、当然だとも思ってしまって。
食卓の空気は、再び静かになった。
けれどもう、
さっきまでの“夕飯”とは、違っていた。
ここから先は――
きっと、戻れない。




