来訪
台所から、包丁の音が聞こえていた。
一定の間隔で、乾いた音が続く。
野菜を刻む音だと、もう分かる。
……ここ、師姉さんの家のはずなんだけど。
最初は、いちいち引っかかっていた。
でも最近は、そうでもない。
立花さんが台所に立っている。
師姉さんはそれを当然みたいに受け入れて、
私は居間で湯のみを両手に包んでいる。
夕方。
外は薄暗くなり始めていて、
家の中だけが、少しだけ暖かい。
――その空気が、ふっと変わった。
「……あら」
最初に声を上げたのは、師姉さんだった。
驚いた様子はない。
でも、迷いもない。
「来たわね」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「え……?」
思わず立ち上がりかけて、私は動きを止めた。
来た? 誰が?
外? 近所? それとも――
「心配しなくていいわ」
師姉さんは、こちらを見もせずに言った。
「見える人以外には、見えないようにしてあるから」
……あ。
そういう、来た、か。
「彼処の仙洞よ」
それだけ言って、師姉さんは立ち上がった。
説明は、それで終わりらしい。
庭の方から、音はしなかった。
羽音も、風も、何も。
なのに。
気づいた時には、そこにいた。
庭先に、少女が立っている。
年は……私と同じくらいか、少し下。美しく流れる白い髪。
白と鈍い灰色を重ねたような、儀礼めいた装束。
動いていないのに、存在だけが、はっきりしている。
耳の奥が、わずかに鳴った。
音じゃない。
雷でもない。
――鳴るはずだったものの、余韻。
少女は、まず台所の方を向いた。
「――天風立華」
名前を呼ぶ声は、淡々としている。
感情の色は、ほとんどない。
その響きだけが、少し違って聞こえた。
……誰?
思わず、師姉さんの方を見る。
「恒一よ」
師姉さんが、当たり前みたいに言った。
ああ、そうか。
そういう呼び方が、あるんだ。
「招きを受け、応じた」
少女は、それ以上の説明をしない。
立花さんは包丁を置き、手を拭いてからこちらへ来た。
「久しいな、玄雷清磬」
その名前を、迷いなく呼ぶ。
少女は、ほんの一拍だけ目を伏せた。
それは礼でも、感情でもない。
――確認だ。
それから、顔を上げる。
「……ああ」
それだけで、会話は成立した。
少女は、次に師姉さんへ向き直る。
「天羅萃華」
先ほどより、わずかに丁寧な声音。
師姉さんは軽く頷いた。
「遠いところ、ご苦労さま」
そして。
少女の視線が、私に向いた。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
見られている。
でも、敵意でも好意でもない。
……測られている。
何者かを、静かに分類する目。
数秒。
それだけだったと思う。
少女は何事もなかったように視線を戻し、
会話はそのまま続いた。
まるで、私の存在だけが
ほんの一瞬、場の外に置かれたみたいに。
「せっかくだし」
師姉さんが、空気を切り替えるように言う。
「ご飯、食べていけば?」
少女はすぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙。
考えるというより、確認しているような間。
それから、何も言わずに室内へ足を運ぶ。
席を示す人はいなかった。
それでも少女は迷わず、
天風立華の隣へと腰を下ろした。
当たり前みたいに。
……あ、そこなんだ。
そう思った自分に、少しだけ驚く。
食卓が整っていく。
湯気が立ち、箸が置かれ、
まだ誰も、手をつけていない。
この人は――
ここに「来た」んじゃない。
最初から、
来ることになっていた人なんだ。
そう思ったところで、
場面は、静かに次へと移っていった。




