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すれ違う風

 ――限界だった。


 視線は、もう逃げ場を与えてくれない。

 距離が、確実に縮まっている。


 足が動かない。

 叫ぼうとしても、声が喉で絡まる。


 その時だった。


 背後から、落ち着いた声がした。


 「少々、待ちなさい。――お嬢さん」


 低く、静かな声。

 叱るでもなく、急かすでもない。

 ただ、そこに割って入る声だった。


 次の瞬間、風が通った。


 強くも、荒くもない。

 けれど確かに、流れが変わる。


 重たかった空気が、裂けるようにほどけていく。

 視線が、途切れた。


 私は、はっと息を吸った。


 振り向いた先にいたのは――少年だった。


 コートを羽織った、小柄な少年。

 年齢は……自分と、変わらないくらいに見える。


 なのに。


 その人の背中は、不思議と大きく見えた。


 少年は、私の方を一度だけ確認すると、背後に視線を向ける。

 そこには、まだ“何か”がいた。


 少年は、何も構えない。

 剣も、道具も、出さない。


 ただ、小さく息を整え――


 風起而不鳴

 気巡而無形

 穢在彼方

 我此静然


 言葉は、ほとんど音にならなかった。

 それでも、空気が応えた。


 背後で、何かが歪む。

 嫌な重さが、紙を丸めるみたいに縮んでいく。


 最後に、耳鳴りのような感覚だけが残り――

 それも、すぐに消えた。


 少年は、もうそこを見ていなかった。


 「……大丈夫ですか」


 問いかけは、事務的だった。

 優しさはある。でも、踏み込まない。


 私は、必死に頷いた。


 「よ、よかった……」


 声が震える。


 少年はそれ以上、何も言わなかった。

 名前も、理由も、説明も。


 ただ一歩、横にずれて――

 私とすれ違う。


 その瞬間、ふっと視線が合った。


 驚いたような目。

 それから、すぐに柔らかく逸らされる。


 ――この人、知ってる。


 理由は分からない。

 でも、そう思った。


 少年は、そのまま歩き去った。


 呼び止めるべきか、迷った。

 でも、口は動かなかった。


 夜道には、もう何もいない。

 ただ、風だけが通り抜ける。


 ……助かった。


 その事実が、ようやく胸に落ちた時。


 背後から、また声が飛んだ。


 「ちょっと君!」


 明るく、よく通る声。


 振り返ると、制服姿の警察官が一人、こちらを見ていた。

 視線は、私ではなく――少年の背中に向いている。


 「君、何歳!?」


 少年は、ぴたりと足を止めた。


 小さく天を仰いでから、ゆっくりと振り返り、困ったように一瞬だけ考える。


 「……十五、に見えますか」


 質問で返すあたり、慣れている。


 警察官は眉をひそめた。


 「見えるね。

 ちょっと警察署、行こうか」


 少年は、小さく息を吐いた。


 諦めたような、でも嫌がってはいない溜息。


 「……分かりました」


 素直に頷く。


 連れて行かれる背中は、どこかおかしかった。

 さっきまで、あんなに頼もしく見えたのに。


 ――変な人。


 でも。


 私の中で、確かな感覚が残っていた。


 あの人は、

 見えてはいけないものを、

 ちゃんと向こうへ押し返した。


 名前も知らない。

 正体も分からない。


 それでも。


 もう一度、会う気がした。

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