――実例
「……」
職員室に、一瞬の沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、
淡々とした、しかし確信に満ちた声だった。
「今、ここにいますよね」
恒一が、静かに言う。
「実例」
視線の先には、
椅子に座って様子を窺っていた穂乃香がいた。
「……え?」
思わず、小さく声が漏れる。
萃華が、ゆっくりと振り向いた。
「……」
一拍。
次の瞬間。
「あら」
ぱぁっと、花が咲くような笑顔。
「そうね」
田所が、嫌な予感に背筋を伸ばす。
「立花、待て、それは――」
「安心してください」
恒一は即座に返す。
「過剰なことはしません」
――“過剰”の基準が違う。
田所の脳裏に、太字で警告が浮かぶ。
萃華は、もう穂乃香の前に立っていた。
「ちょっと失礼するわね」
優しい声。
触れ方も、距離感も、完全に節度がある。
だが――
「姿勢」
指先で、軽く背中を示す。
「ほら、胸を張って。
緊張すると、守ろうとして縮こまる癖がある」
穂乃香は、言われるまま背筋を伸ばした。
「あ……」
視線が上がる。
呼吸が、深くなる。
萃華は、次に髪を見る。
「この子ね、顔立ちが柔らかいでしょう」
田所と佐倉に向けて、説明するように言う。
「だから、下を向くと全部“弱さ”に見える」
佐倉が、思わず息を呑む。
――言われてみれば。
「目線を、少し上」
萃華の指示で、穂乃香が顔を上げる。
それだけで、印象が変わった。
「……」
職員室が、静まり返る。
「ほら」
萃華は、満足そうに頷いた。
「何もしてないでしょう?」
事実だった。
化粧も。
服装も。
触れ方すら、最小限。
ただ――
“見せ方”を整えただけ。
「この子はね」
萃華は、穏やかに続ける。
「守られる側に置かれすぎてきた」
穂乃香は、少し驚いた顔をする。
「でも本当は、
“立っていい人”なのよ」
佐倉の胸が、ちくりと痛んだ。
田所は、何も言えなかった。
恒一は、静かに言う。
「これが、師姉のやり方です」
「……」
「危険ではありません」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「ただ、効きます」
萃華は、にっこり笑った。
「ね?」
佐倉の方を見る。
「先生も、同じ」
佐倉は、条件反射で背筋を伸ばしていた。
――捕捉、完了。
田所は、額を押さえた。
「……今日は、ここまでにしてください」
切実な声だった。
「はーい」
萃華は、素直に手を引く。
その様子を見て、穂乃香は思った。
怖くはない。
恥ずかしくもない。
ただ――
少し、世界の見え方が変わった。




