――善意という名の前兆
応接スペースに、短い沈黙が落ちた。
田所は湯呑みを手にしたまま、眉間に皺を寄せている。
考えている、というより――考え込まされている顔だった。
理屈は通っている。
書類も問題ない。
生徒本人も、納得している。
それでも、教師としての勘が警鐘を鳴らしていた。
――この状況、普通じゃない。
そのときだった。
すっと、影が動く。
「失礼します」
静かな声。
恒一が立ち上がり、
田所の湯呑みを手に取った。
「……あ?」
「お茶が冷めています」
言われて初めて、田所は気づいた。
確かに、もう湯気は立っていない。
「す、すまん……」
反射的に謝る。
恒一は何も言わず、
ポットに新しいお茶を注ぎ、湯呑みを戻した。
動きに無駄がない。
気遣いが、過不足なく自然だった。
「……」
田所は一口飲み、
思わず息を吐いた。
「……助かる」
ぽつりとこぼれた本音。
その様子を、萃華が楽しそうに眺めている。
「あらあら」
肘をつき、にこにこしながら言う。
「気が利くでしょう?
この子」
田所は、思わず苦笑した。
「……中学生に、ここまで気を遣われるとはな」
「慣れてるのよ」
萃華は、さらりと言う。
「悩む大人を見るの」
田所の手が、一瞬止まった。
それを見逃さず、萃華は続ける。
「先生、勘違いしないでね」
声は軽い。
でも、どこか芯があった。
「私、学校を壊しに来たわけじゃないの」
「……」
「この子たちが、ちゃんと息をして過ごせる場所を守りたいだけ」
穂乃香は、その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
恒一は、静かに元の席に戻る。
田所は、湯呑みを置いた。
――本気が、まだ出ていない。
理由は分からないが、
なぜかそう確信してしまう。
「……」
額を押さえ、深く息を吐く。
「……今日は、ここまでにしよう」
絞り出すように言った。
萃華は、ぱっと笑顔になる。
「そうね。無理は禁物」
そして、最後に一言。
「でも」
指を立てる。
「困ったら、すぐ呼んで?」
田所の背中に、嫌な汗が流れた。
――呼ぶな、という意味だろうか。
それとも、呼ばざるを得なくなる、という予告だろうか。
どちらにせよ。
この“保護者”は、
まだ全力を出していない。
田所は、冷めることのないお茶を前に、
静かに覚悟を決め始めていた。




