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――逃げ場のない朝

 教室の扉を開けた瞬間、

 穂乃香は、はっきりと「何かがおかしい」と思った。


 ――静かすぎる。


 いや、正確には、音はある。

 話し声も、机を引く音も、いつも通り。


 ただ。


 視線だけが、全部こちらを向いていた。


「……?」


 一歩、足を踏み入れる。


 ざわ、と空気が揺れた。


「……え?」

「ちょっと待って」

「マジで?」


 声は小さい。

 でも、数が多い。


 穂乃香は、条件反射で鞄を胸に抱き直した。


「……あ、あれ……?」


 席に向かおうとした、その瞬間だった。


「穂乃香ちゃん!」


「ちょっと!」


「ねえねえ!」


 左右から、前から、背後から。


 囲まれた。


「え、なに、どうしたの……?」


「髪!」

「眼鏡!」

「コンタクト!?」


 質問が一斉に飛んでくる。


「い、いや、その……」


 言い訳を考える暇もない。


「昨日と全然違うんだけど!」

「なんで今まで隠してたの!」

「ずるくない!?」


「ずるい……?」


 何がどうしてそうなるのか、理解が追いつかない。


 そのとき。


「はいはいはい、落ち着いて」


 聞き慣れた声が割り込んだ。


 いつもの隣席のひなただ。

 肘をついて、にやにやしながらこちらを見ている。


「穂乃香ちゃん、今さら誤魔化しても無理だよ」


「え……?」


 ひなたは、楽しそうに言った。


「だってさ」


 一拍置いて、


「転校生と一緒に登校して、この破壊力で“何もない”は無理」


 ……。


 …………。


「……っ!?」


 遅れて、言葉の意味が落ちてくる。


 穂乃香の顔が、一気に熱くなった。


「ち、ちが……!」


 否定しようとして、

 何を否定すればいいのか分からなくなる。


 周囲は悪意ゼロ。

 むしろ楽しそう。


「なるほど〜」

「そういうことか〜」

「朝から目の保養なんだけど」


「穂乃香ちゃん、罪だよこれは」


 違う。

 そうじゃない。


 でも、誰も聞く耳を持たない。


 ――逃げたい。


 そう思ったとき、ようやくチャイムが鳴った。


「ほら、席ついて!」


 教師の声に、渋々散っていく女子たち。


 穂乃香は、椅子に座り込むように腰を下ろした。


「……朝から疲れた……」


 小さく呟くと、隣のひなたが肩を叩く。


「まあまあ。悪いことじゃないでしょ」

 ひなたが、内緒話をするように顔を近づけてくる。その瞳には、親友の変化を喜ぶ純粋な光と、ほんの少しの好奇心が混ざっていた。

「穂乃香ちゃん、知ってた?……眼鏡を外したあんたの目、すっごく熱っぽいんだよ。隣を歩いてた彼、よく平気な顔してられたね」


「……っ! な、なな、何を……」

 穂乃香は、自分の「熱」を指摘され、思わず自分の頬を両手で押さえた。

 萃姉に施された化粧は、ただ綺麗にするだけでなく、穂乃香の肌の質感や、視線の湿度さえも変えてしまったらしい。ひなたの言葉は、まるで隠していた恋心を暴かれたような、むず痒いような感覚を彼女に刻みつけた。


 けれど。


 教室の空気は、明るかった。

 少なくとも、昨日までの重さはどこにもない。


 ――そのことだけは、確かだった。


 昼過ぎ。


 廊下の向こうが、やけに騒がしい。


「なんか、校門の方……」

「先生たち、集まってない?」


 ひそひそ声が広がる。


 穂乃香が顔を上げると、

 窓の外で、教師たちが慌ただしく動いているのが見えた。


 胸の奥が、きゅっとする。


 理由は分からない。

 でも、さっきまでの騒がしさとは違う。


 そのとき。


 前の席に座る立花恒一が、静かに立ち上がった。


 ほんの一瞬、視線がこちらを向く。


 何も言わない。

 けれど、その目は――


 **「来た」**と、はっきり語っていた。


 穂乃香は、無意識に背筋を伸ばした。


 嵐は、まだ姿を見せていない。


 でも。


 確実に、校門の向こうまで来ている。


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