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――変質した日常

 朝の空気は、澄んでいた。


 恒一は、いつもと同じ時間に歩き出し、

 いつもと同じ場所で足を止める。


 数秒後、玄関の扉が開いた。


「あ、お、おはよう……!」


 穂乃香が、少し慌てた様子で姿を現す。


 恒一は、一瞬だけ言葉を失った。


 昨日のまま――

 髪は下ろされ、眼鏡はなく、瞳にはコンタクトが入っている。


 変わったのは外見だけだ。

 歩き方も、声も、立ち方も、穂乃香そのもの。


 だが、それだけで印象は決定的に違った。


「あの……」


 穂乃香は、視線を泳がせながら言い訳のように言葉を重ねる。


「その……萃お姉さんが、せっかくだからって……

 手入れの仕方も、セットの仕方も、全部教えてくれて……

 その、戻すのも変かなって……」


 必死な説明だった。


 恒一は黙って聞き、頷く。


「問題はない」


 短く答える。


 その一言に、穂乃香は肺に溜まっていた熱い空気をようやく吐き出した。

 眼鏡のない視界は、いつもよりずっと広く、そして恐ろしいほどに明瞭だ。

 三つ編みから解放され、背中にさらさらと流れる自分の髪の重みが、歩くたびに肌をなぞる。それはまるで、萃姉に「女」としての輪郭をなぞり直された感触が、まだそこに残っているかのようだった。


 歩き出す。


 いつも通りの速度。

 いつも通りの距離。


 だが、恒一は無意識のうちに、

 歩く位置を半歩だけ調整していた。


 人通りの少ない道を抜け、

 大通りへ出た、その瞬間だった。


 空気が、変わる。


「……え?」

 「今の子……」


 突き刺さるような視線の群れ。

 これまで「背景」として処理されていた自分の存在が、突然、世界の中心に引きずり出されたような錯覚。

 穂乃香は、自分の顔がひどく熱くなるのを感じた。隠れる場所がない。

 頬に触れる朝の風さえ、誰かの指先に触れられているようで、思わず肩をすくめる。


 「……な、何か変?」


 上目遣いに恒一を盗み見る。

 彼の視線は、周囲の浮ついた空気とは一線を画していた。

 欲も、冷やかしもない。ただ静かに、今の自分を「観測」している。

 その温度だけが、露出した肌を刺す無遠慮な視線から、彼女をかろうじて守ってくれる唯一の防壁だった。


 今のところ、問題はない。


「……師姉は、意図的に「蓋」を外したな。」


 小さく、溜息が漏れた。


 萃華が常々口にしていた言葉を思い出す。


 ――隠してるだけよ。

 ――ちゃんと引き出せば、こうなるの。


 その通りだった。


 彼女の魅力を、

 遠慮なく、容赦なく、最大限に。


 善意で。

 悪意なく。


 だからこそ、厄介だ。


 周囲の男子生徒が、声を上げる。


「あれ、誰だよ……」


「転校生と一緒に歩いてる子……?」


 恒一は、穂乃香の歩調が僅かに乱れたのを察し、

 自然な動きで人の流れから外す。


 守るためではない。

 事故を避けるためだ。


 穂乃香は、その意味に気づかないまま、

 小さく息を吐いた。


「……すごい、見られてる気がする」


「事実だ」


 淡々と答える。


「……やっぱり、変だった?」


「変わっただけだ」


 言い直す。


「悪い変化ではない」


「……うん」


 穂乃香は小さく頷き、伏せがちだった顔を上げた。

 

 ——変わった。

 確かに、世界の見え方が変わってしまった。


 でも、隣を歩く彼の速度だけは変わらない。

 それが、今の彼女にとっては、どんな術よりも心強い救いだった。


 その横顔を見ながら、恒一は思う。


 ――日常が、静かに変質し始めている。


 師姉の一手で。

 本人の自覚のないまま。


 学校に着く前から、

 すでに波紋は広がっていた。


 恒一は、再び小さく溜息をつく。


 明日ではない。


 今日だ。


 今日、師姉が来る。


 そう考えると、

 この程度の視線など、まだ穏やかなものだった。

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