――巫蠱の領分
日曜日の午前中。
アトリエの扉を開けた瞬間、穂乃香は思わず息を呑んだ。
「……すごい……」
壁一面に並ぶ衣装。
マネキンに掛けられたそれらは、いわゆる“コスプレ”と呼ばれるものなのだろう。
だが、軽さも安っぽさもない。
縫製は精密で、装飾は過剰ではなく、
布の重なりや留め具の配置に、明確な意図が見える。
穂乃香は詳しいわけではない。
それでも、これが一朝一夕で出来るものではないことくらいは分かった。
その一歩後ろを、恒一が無言で歩いている。
――やけに、雰囲気が重い。
初めて見るほどの、張り詰めた表情。
まるで、これから妖魔討伐にでも向かうかのようだ。
「……?」
小首を傾げるが、理由は分からない。
「いらっしゃーい!」
明るい声とともに、天羅萃華が姿を現した。
満面の笑顔。その手には、小ぶりな箱が抱えられている。
「今日は手伝ってくれるんでしょ? ありがとうね、穂乃香ちゃん」
「い、いえ……こちらこそ、いつもお世話になってて……」
そう言いながらも、視線はどうしても衣装に吸い寄せられる。
萃華はそれに気づいたのか、くすりと笑った。
「ただの趣味って顔じゃないでしょ。
これ、全部“使える”のよ」
意味深な言い方だったが、説明はしない。
代わりに、鏡の前の椅子を指差す。
「はい、座って」
「え?」
促されるまま、穂乃香は椅子に腰掛けた。
その背後に立つ萃華。
箱を開けると、中には化粧道具が整然と並んでいる。
「今日の手伝いはね」
楽しそうに言いながら、萃華はブラシを手に取る。
「マネキン役。
――正確には、着せたいだけ」
「……え?」
「大丈夫大丈夫。巫蠱は薬を作る人。
化粧も、立派な領分なんだから」
当然のように言い切った。
「皮膚から入るもの、匂い、色。
全部、人体に作用するでしょう?」
穂乃香が何か言う前に、萃華は手際よく作業を始める。
「任せて〜」
その言葉通りだった。
迷いのない手つき。塗る、整える、重ねる。
萃華の指先は驚くほど軽やかで、魔法をかけているかのようにリズミカル。
ふわりと漂うのは、翠華が独自に調合した、どこか懐かしくも洗練された薬草と花の香り。それは、穂乃香の強張った肩の力を、不思議と解きほぐしていく。
「ほら、じっとしててね。……あんたの肌、本当は凄く綺麗なんだから。隠しとくなんて勿体ないでしょ?」
萃華が楽しげに目を細める。
彼女にとって、巫蠱の知識を活かした化粧は、相手の持つ美しさを「抽出」する作業。
指先から伝わるのは、実験を楽しむような純粋なワクワク感だった。
途中、ふと思い出したように萃華が口を開く。
「あ、そうだ」
鏡越しに、恒一を見る。
「明日、あんたの学校行くから」
「……?」
「三者面談だって」
恒一の動きが、完全に止まった。
「……聞いていない」
「言ってないもの」
悪びれもせず、にっこり。
恒一は、静かに息を吐いた。
あの悲壮な雰囲気の理由が、穂乃香にもようやく分かる。
そうこうしているうちに、化粧とヘアメイクは終わった。
「はい、完成。……さて、ここからが本番よ」
萃華が、まるでおまじないを解くように、穂乃香の眼鏡をひょいと外した。
続いて、丁寧に編み込まれていた三つ編みに指を入れ、さらりと解き放つ。
重力から解放された髪が肩に広がり、穂乃香は自分が「いつもの秋月穂乃香」という殻から、一気に飛び出したような感覚を覚えた。
「……え……?」
鏡の中にいたのは、驚くほど垢抜けた、けれど確かに自分自身である少女。
コンタクトに替わった瞳は以前より大きく、潤んで見え、萃華が選んだ色によって、彼女の持つ透明感が際立っている。
唇は、まるで朝日を浴びた花びらのような、瑞々しい艶を宿していた。
「……ど、どう……かな……?」
少し落ち着かない気持ちで、穂乃香は鏡越しに恒一を見た。
恒一は、しばらく黙っていた。
術式の構成を組み直す時のように、真剣に言葉を探している顔だった。
萃華が、肘で軽く突く。
「ほら」
「……」
少しだけ視線を逸らし、それから正面に戻す。
「……良く、似合っていると思う」
淡々としているけれど、その視線はいつもより少しだけ長く、穂乃香の顔に留まっていた。
穂乃香の顔が、一気に熱くなる。
「あ、ありがとう……」
それからは、目まぐるしかった。
衣装を替え、また替え、
その度に微調整が入り、また鏡に向かう。
気づけば、時間がかなり経っていた。
「……もう、そのくらいで」
恒一が口を挟む。
「疲れている」
穂乃香を見る視線は、はっきりと気遣いのそれだった。
「あら、残念」
萃華は名残惜しそうに肩をすくめる。
「でもまあ、今日はここまでね。
似合うって分かってたし」
意味深な言葉だった。
帰り際、恒一はもう一度、深く溜息をついた。
――明日。
学校に、師姉が来る。
その事実を思い出してしまったからだった。




