――守られない場所
気づいたとき、穂乃香は立っていた。
見覚えのある場所――のはずだった。
学校の廊下。
夕方の光。
窓の外の校庭。
なのに、どこかがおかしい。
音がない。
話し声も、足音も、風の音すらない。
「……?」
一歩踏み出すと、床が、底のない沼のように、わずかに沈んだ気がした。
柔らかいわけじゃない。
ただ、確かさがない。
胸の奥が、じわりと冷える。
穂乃香は、周囲を見渡した。
――いない。
いつもなら、少し離れた場所に立っているはずの人影がない。
廊下の端にも、階段の踊り場にも。
名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づく。
息が浅くなる。
背中に、何かが触れた気がした。
反射的に振り返る。
誰もいない。
けれど、視線だけがある。
見えない何かが、じっとこちらを見ている。
逃げようとして、足が動かない。
――違う。
足が動かないのではなく、
逃げる方向が分からないのだと、穂乃香は理解した。
守ってくれる場所が、どこにもない。
胸が締めつけられる。
怖い。
ただ怖い。
そのとき、ふと気づいた。
この恐怖は、初めてじゃない。
でも、今までと違う。
今までは、
「誰かが来てくれる」
「大丈夫になる」
そう思える余地があった。
でも、ここには――
それがない。
完全に、一人だった。
「……やだ」
ようやく、声が出た。
その瞬間。
世界が、ひび割れた。
音が戻る。
光が差し込む。
視界が白く弾ける。
――はっと、目を開ける。
暗い天井。
慣れた匂い。
布団の感触。
夢だ。
穂乃香は、荒い息を吐いた。
胸が上下している。
指先が、少し震えている。
――夢で、よかった。
そう思った瞬間、
隣から、微かな気配を感じた。
布団の端が、ほんの少し沈んでいる。
「……起きたか」
低く、落ち着いた声。
穂乃香は、反射的に身体を起こし、
そのまま、恒一の袖を掴んでいた。
意識する前に、手が動いていた。
「……っ」
気づいて、顔が熱くなる。
「ご、ごめん……!」
慌てて手を離そうとするが、
恒一は何も言わず、そのまま座っていた。
「夢だな」
断定ではなく、確認するような口調。
穂乃香は、小さく頷いた。
「……守られない場所に、いた」
声が、少し震える。
恒一は、静かに言った。
「ここは違う」
それだけ。
余計な説明も、慰めもない。
でも、その言葉は、はっきりと現実だった。
ここにいる。
隣にいる。
今は、守られている。
その事実が、胸の奥に落ちてくる。
さっきまでの恐怖が、少しずつ溶けていく。
穂乃香は、布団の中で息を整えながら、思った。
――平穏って、
――ただ何も起きないことじゃないんだ。
失うかもしれないと知って、
それでも、今ここにあると分かること。
その実感が、
今までよりも、ずっと温かかった。
目を閉じる。
さっきよりも、深く眠れそうだった。
幸福は、確かにそこにあった。
一段、確かな形を持って。




