――当たり前になる距離
放課後の校舎は、昼間よりも音が少ない。
部活動の声が遠くから聞こえてくるだけで、
廊下には、穂乃香と恒一の足音しかなかった。
「……ねえ」
穂乃香は、歩きながら口を開いた。
呼び止めるつもりはなかったのに、
気づいたら声が出ていた。
恒一は足を止め、振り返る。
「どうした」
それだけ。
問い返しも、急かす様子もない。
穂乃香は一瞬、言葉に詰まった。
何を言えばいいのか、分からない。
はっきりとした出来事があるわけじゃない。
それでも。
「……教室、落ち着いたよね」
「そうだな」
「でも……」
そこから先が、少し難しかった。
不安。
怖さ。
違和感。
どれも、はっきりした形がない。
「……安心していいはずなのに」
声が、小さくなる。
「まだ、ちょっと……変な感じがして」
恒一は、しばらく黙っていた。
考えているのか、
それとも、ただ待っているだけなのか。
「消えない感覚はある」
やがて、静かに言う。
「一度、強く触れたものは、すぐには薄れない」
断定でも、否定でもない言葉だった。
「……私、おかしいかな」
思わず、そう聞いてしまう。
恒一は、首を横に振った。
「自然だ」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が少し緩む。
穂乃香は、その感覚に、はっとした。
――あ。
自分は今、
不安になったら、この人に話すという選択を、
何の迷いもなくしていた。
少し前までなら、
我慢して、やり過ごして、
夜になってから一人で考えていたはずなのに。
「……ねえ」
歩き出しながら、もう一度口を開く。
「私さ」
言いかけて、止まる。
何を言おうとしたのか、
自分でもよく分からなかった。
恒一は、何も言わずに隣を歩く。
距離は、近すぎず、遠すぎず。
けれど、確かに、以前よりも近い。
「……相談するの、当たり前みたいになってる」
ぽつりと、穂乃香は言った。
恒一は、少しだけ首を傾けた。
「問題か?」
即答だった。
穂乃香は、思わず足を止める。
問題かどうか。
考えたこともなかった。
「……分からない」
正直に答える。
「でも……ちょっと、びっくりしてる」
恒一は、少し考えるように視線を落としたあと、
「当たり前になって困るなら、距離を変える」
淡々と、そう言った。
「困らないなら、そのままだ」
あまりにも簡単な結論。
でも、その言葉に、
「離れる」とも「縛る」とも言っていないことに、穂乃香は気づいた。
「……今は」
少しだけ、間を置いて。
「今は、困ってない」
恒一は、軽く頷いた。
「なら、それでいい」
それ以上は、何も言わなかった。
校門の向こうに、夕方の光が差し込む。
不安は、まだ消えていない。
けれど、抱えきれないほどではなくなっていた。
それが、この人の隣にいるせいだと、
穂乃香はもう、分かってしまっていた。
そして同時に、
それを「当たり前」にし始めている自分に、
小さな戸惑いと、それを上回る「諦め」に近い安堵を覚えるのだった




