――消えない影
教室は、静かだった。
ざわざわしていない。
誰かが睨んでくることも、ひそひそと悪意の混じった声が飛ぶこともない。
昨日までの重さが、嘘みたいだった。
それなのに。
穂乃香は、胸の奥に残るものを拭いきれずにいた。
ノートに視線を落としても、文字が頭に入ってこない。
呼吸はできているはずなのに、どこか浅い。
――おかしい。
教室の空気は、確かに良くなっている。
それは、誰が見ても分かる。
友人たちの声は明るく、
視線も、昨日のような鋭さはない。
それでも。
ふとした瞬間、背中の薄皮一枚を、冷たい指先でなぞられた気がして、穂乃香は肩をすくめた。
振り返る。
そこには、誰もいない。
亮の姿も、ない。
それなのに、
視線を感じた気がしてしまう。
――気のせいだよね。
自分に言い聞かせる。
最近、いろいろあったから。
夜、眠れなかった日。
甘い匂いに包まれた記憶。
暗い場所で、声が聞こえた気がしたこと。
全部、もう終わったはずだ。
そう思おうとした、そのとき。
前の席の椅子が引かれる音がした。
びくり、と身体が反応してしまう。
「……穂乃香?」
小さく呼ばれて、はっとする。
振り返ると、ひなたが不思議そうな顔をしていた。
「大丈夫?」
「……うん。ごめん」
そう答えながら、穂乃香は笑おうとした。
でも、口角がうまく上がらない。
視線を前に戻すと、
廊下側の窓の向こうに、恒一の姿が見えた。
静かに立ち、何かを確認するように、周囲を見ている。
その立ち位置が、無意識に自分と教室を守る形になっていることに、穂乃香は気づいてしまった。
――守られてる。
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
安心と同時に、
それに慣れてしまいそうな自分が、少し怖かった。
もし、彼がいなかったら。
そんな考えが、頭をよぎる。
慌てて、振り払う。
考えちゃだめだ。
今は大丈夫。
今は、何も起きていない。
そう自分に言い聞かせながら、穂乃香はノートに視線を戻した。
けれど、胸の奥の違和感は、消えなかった。
まるで、
見えない影が、自分の中に「根」を残していったみたいに。




