――静かな満足
教室に足を踏み入れた瞬間、恒一は空気の違いを感じ取った。
重さがない。
先日まで、どこか澱んでいた気配が、きれいに抜け落ちている。
ざわめきはある。
だがそれは、不安や苛立ちではなく、他愛のない雑談の音だった。
席へ向かう途中、視線を巡らせる。
柊が、委員として数人の生徒に声を掛けている。
必要以上に強く出ることもなく、しかし曖昧に流すこともない。
以前よりも、周囲が自然に応じているように見えた。
その少し離れたところで、亮が立っていた。
柊と目が合うと、亮は一瞬だけ躊躇し、それから短く会釈する。
言葉は少ないが、棘はない。
それだけで、この場の「理」は正された。
恒一は、静かに自席に腰を下ろす。
原因はいくつかあるだろう。
亮の態度が変わったこと。
柊が、委員として場を回していること。
若い彼らが、互いに余計な角を立てずに済むようになった。
それが、この空気を作っている。
――それでいい。
恒一は、そう思った。
自分が何かをした、という意識はない。
為すべきことを為しただけだ。
責務を果たした。
それ以上でも、それ以下でもない。
もし結果として、教室の空気が変わったのだとしても。
それは、彼の目的ではなかった。
だが。
若い彼らにとって、この環境の方が好ましい。
少なくとも、前に進む選択肢が残る。
ぶつかるにしても、壊れるにしても、
それは彼ら自身が選ぶべきことだ。
恒一は、窓の外に目を向けた。
校庭では、何人かの生徒が笑いながら走っている。
特別なことは何もない、ありふれた昼前の光景。
それで十分だ、と彼は思った。
これ以上を望む理由は、なかった。
静かに暮らすには、
少しだけ騒がしいくらいが、ちょうどいい。




