境界の夢
眠りは、静かに訪れた。
けれど、深くはない。
水面に浮かぶような、薄い眠り。
穂乃香は、夢の中で歩いていた。
——どこだろう。
見覚えはない。
でも、懐かしい気がする。
夜のはずなのに、暗くはなかった。
月明かりでも、街灯でもない。
境界そのものが、淡く光っている。
足元には、はっきりとした影がない。
代わりに、揺れる輪郭。
——ここは。
胸が、きゅっと締めつけられる。
怖い。
でも、目を逸らせない。
前方に、影が見えた。
人の形をしている。
けれど、人ではない。
輪郭が、にじんでいる。
何体も。
重なり、絡まり、ひそひそと囁いている。
声は、意味を持たない。
声にならない声が、泥のように彼女の意識にまとわりつく。
けれど、その悪意さえも、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。
——見られている。
——値踏みされている。
身体が、動かなくなる。
逃げたいのに、足が前に出ない。
その時。
風が、吹いた。
優しい風。
冷たくも、強くもない。
影たちが、ざわめく。
嫌がるように、距離を取る。
穂乃香の視界の端に、人影が立っていた。
声は、聞こえない。
顔も、はっきりしない。
でも。
——分かる。
そこにいる。
ちゃんと。
胸の奥に、じんわりとした温度が戻る。
恐怖は、消えない。
でも、一人じゃない。
影たちは、完全には消えないまま、境界の向こうへ退いていく。
——また、来る。
そんな予感だけを残して。
風が、止む。
世界が、ゆっくりと溶けていく。
最後に、一枚の符が、光った気がした。
穂乃香は、そこで目を覚ました。
天井が、見える。
知らない部屋。
でも、怖くはない。
胸に手を当てると、心臓は、ちゃんと動いていた。
その鼓動が、昨日よりもずっと力強く、自分をこの世界に繋ぎ止めている気がした。
——夢。
そう、思う。
けれど。
目を閉じた時、あの影の感触が、まだ残っていた。
そして、分かってしまった。
これは、ただの夢じゃない。
自分は、“見てしまった”のだと。
境界を。
穂乃香は、静かに息を吐いた。
怖い。
それでも。
逃げない。
その選択肢が、もう存在しないことを、夢の中で知ってしまったから。




