言えないこと
教室は、いつも通りだった。
チャイムが鳴って、席に着いて、黒板に文字が書かれる。誰かが小さく笑って、誰かが眠そうに欠伸をしている。特別なことは、何もない。
それなのに、私は落ち着かなかった。
昨夜も、ほとんど眠れなかった。
夢を見た気がする。でも、内容は思い出せない。ただ、目が覚めた時、胸の奥に重たいものが残っていた。
休み時間。
私は、隣の席の友達に声をかけられた。田中ひなた。それが彼女の名前。
「穂乃香、大丈夫?」
心配そうな顔。
この子との付き合いは、長い。派手な付き合いはしないけれど、だからこそ信頼している。
「……ちょっと、寝不足で」
それは嘘じゃない。
ただ、全部じゃない。
「最近さ、顔色悪いよ。保健室行く?」
私は首を振った。
保健室で眠っても、夢は消えない気がした。
一瞬、迷った。
言うべきかどうか。
でも、このまま黙っている方が、怖かった。
「ねえ……」
声が、少しだけ小さくなる。
「夜、変な感じがすることって、ない?」
ひなたは、きょとんとした顔をした。
「変な感じ?」
「誰もいないのに、見られてる気がするとか……
空気が重くなるとか……」
言葉にしてみると、急におかしく聞こえる。
自分でも分かる。
ひなたは少し考えてから、困ったように笑った。
「それ、疲れてるんじゃない?」
優しい声だった。
否定するつもりじゃないのも、分かる。
「穂乃香、真面目だからさ。
考えすぎちゃうんだよ」
その一言が、胸に刺さった。
考えすぎ。
気のせい。
よくあること。
「……そっか」
私はそれ以上、何も言えなかった。
もし、ここで否定されたら。
もし、笑われたら。
そう思っていたけれど、違った。
理解されないことの方が、ずっと痛い。
ひなたは悪くない。
正しいのは、たぶん向こうだ。
授業が再開し、ノートを取る。
黒板を叩くチョークの音が、やけに遠く聞こえる。
文字は書けているのに、内容が頭に入ってこない。
ふと、窓の外を見る。
校庭は、いつも通りだ。
風が吹いて、木が揺れている。
――何も、ない。
なのに、私は確かに思ってしまった。
次に誰かに言うとしたら、
もっとおかしくなってからじゃないと、無理だ。
その考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥で、何かが静かに閉じた。




