視線の重さ
朝。
通学路は、いつもより人が多かった。
駅へ向かう社会人。
子供を連れた親。
自転車の音と、信号の電子音。
——安全なはずの、時間帯。
なのに。
穂乃香は、胸の奥が詰まるような感覚を覚えていた。
息が、少し浅い。
理由は分からない。
ただ、空気が重い。
(……昨日は、こんなじゃなかったのに)
無意識に、歩調が落ちる。
その瞬間だった。
——見られている。
背中ではない。
横でもない。
前方の、人の流れの中から。
穂乃香は、反射的に視線を向けた。
人と人の隙間。
電柱の影。
少し離れた歩道の向こう。
——いた。
小林亮。
こちらを、見ていた。
ただ見ているだけ。
手を振るでも、声を掛けるでもない。
なのに。
その視線は、獲物を見る獣のそれだった。
ぎらついている。
怒りでも、好意でもない。
もっと、生々しいもの。
穂乃香の喉が、ひくりと鳴る。
逃げたい。
でも、足が止まる。
視線を逸らせない。
——まずい。
そう思った瞬間。
視界が、遮られた。
すっと、一歩前に出る影。
立花くんだった。
彼は、穂乃香と亮の間に、自然に立っていた。
亮の方は、見ない。
目線も向けない。
ただ、穂乃香にだけ声を掛ける。
「……先を急ぎましょう」
落ち着いた声。
けれど、いつもより少し低い。
「ここは、人が多すぎます」
穂乃香は、はっとして頷いた。
「……はい」
歩き出す。
立花くんが、あえて背中で遮るようにほんの半歩、前に出る。
それだけで、視線の重さが、少し薄れた。
背後で、歯を剥くような何かが軋む気配がした。
振り返らない。
振り返る必要はないと、直感が告げている。
人の流れに紛れながら、二人はその場を離れた。
しばらくして。
息が、ようやく楽になる。
「……今の」
穂乃香が、小さく口を開く。
「気づきましたか」
立花くんは、歩いたまま答えた。
「はい」
即答だった。
「ですが、今は対応しません」
穂乃香は、少しだけ顔を上げる。
「……どうしてですか」
立花くんは、少し考えてから言った。
「人が多い」
それだけ。
だが、その一言に、理由はすべて含まれていた。
「……私、見られてましたよね」
確認するように、尋ねる。
立花くんは、一瞬だけ間を置き、頷いた。
「ええ」
「……怖かったです」
正直に、言う。
昨日なら、言えなかったかもしれない。
でも今は。
「それで、いい」
そう返ってきた。
「違和感は、正しく伝えられました」
その言葉に、胸の奥が、少しだけ落ち着く。
校舎が見えてきた。
朝の喧騒の中へ、再び戻っていく。
穂乃香は、最後に一度だけ、心の中で呟いた。
——見られている。
でも。
——独りじゃない。
その確信だけが、足取りを、前へ進ませていた。




