安全な場所で
夜。
師姉の家は、静かだった。
昼間の騒がしさが嘘みたいに、照明も落とされ、家全体がゆっくりと呼吸している。
穂乃香は、用意された部屋で、布団に横になっていた。
——安全。
そう、言われている。
鍵もある。
窓も閉まっている。
誰かの気配も、きちんとある。
それなのに。
目を閉じると、夕方の帰り道が、何度も浮かんできた。
空気の重さ。
理由の分からない息苦しさ。
見えないのに、確かに「いた」と思った感覚。
「……怖かったな」
小さく、呟く。
今さら、実感が追いついてきた。
——あれは、気のせいじゃなかった。
立花くんの言葉を、思い出す。
『それは、見鬼の反応です』
——見鬼。
聞いたことのない言葉。
でも、不思議と、腑に落ちた。
自分だけが感じていた違和感。
自分だけが、
「何かおかしい」と思っていた理由。
「……これが、能力……?」
言葉にした瞬間、胸が少しだけ、きゅっと縮む。
嬉しくなんてない。
むしろ——知りたくなかった。
怖いものが、怖いと分かってしまったから。
ふと。
別の記憶が、浮かぶ。
帰り道。
立花くんの背中。
そして——自分の手。
無意識に、彼の袖を掴んでいた感触。
思い出した瞬間、一気に顔が熱くなる。
「……っ」
慌てて、布団を引き上げる。
——何やってるの、私。
怖かったとはいえ、距離、近すぎる。
立花くんは、何も言わなかった。
振り払うことも、驚くこともなく。
ただ、歩調を少し早めただけだった。
その事実が、余計に恥ずかしい。
胸の奥が、落ち着かない。
でも。
布団の温もりと、家の静けさが、少しずつ意識を沈めていく。
目を閉じる。
——安全。
もう一度、そう言い聞かせた。
気づけば、立っていた。
そこは、どこでもない場所だった。
暗い。
でも、闇ではない。
境目。
そうとしか言いようのない空間。
足元は、地面があるのかないのか分からない。
遠くで、何かが揺れている。
音はしない。
でも、
「視線」だけがある。
——見られている。
穂乃香は、はっきりと理解した。
怖い。
けれど、逃げ場がない。
声を出そうとして、出ない。
代わりに、胸の奥が、ざわりと揺れる。
——これは。
——現実じゃない。
そう分かっているのに、体が動かない。
その時。
遠くで、何かが“整う”気配がした。
近づいてこない。
触れてもこない。
ただ、こちらを知っただけ。
——見つけられた。
その確信だけが、強く残る。
次の瞬間。
景色が、ふっと溶けた。
穂乃香は、小さく息を吸い、目を開けた。
天井。
布団。
静かな部屋。
心臓が、少しだけ早く打っている。
首筋に、夢の中で感じた冷たい視線がまだへばり付いているような気がして、思わず手で拭った。
——夢。
そう思う。
でも。
胸の奥に残る、説明のつかない感覚だけは、消えていなかった。
穂乃香は、布団の中で、そっと手を握る。
「……大丈夫」
誰にともなく、そう呟いた。
この家は、安全だ。
少なくとも、今夜は。
でも。
境界を一度見てしまった以上、もう何も知らなかった頃には戻れない。
穂乃香は、薄く目を閉じながら、その事実を静かに受け止めていた。




