知らない部屋で
目を覚ました時、最初に思ったのは——ここは、病院じゃない、ということだった。
天井が低い。
白すぎない。
消毒の匂いもしない。
穂乃香は、ゆっくりと身体を起こした。
布団。
きちんと畳まれている。
自分の服は、いつの間にか着替えさせられていたらしく、知らないけれど清潔な部屋着になっている。
枕元には、マグカップ。
中身は、まだ少し温かいお茶だった。
——ここ、どこだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が、わずかにざわついた。
知らない部屋。
知らない家。
なのに、不思議と怖くない。
むしろ——落ち着かない。
視線を巡らせて、その理由が分かった。
部屋の隅。
棚の上。
紙。
紐。
金属片。
見たことのない形の道具。
一見すると雑多なのに、どれも無秩序には置かれていない。
触ってはいけない、と直感が告げていた。
その時、玄関の方で音がした。
がちゃり、と控えめな開閉音。
「……?」
穂乃香が身構えるより先に、低い声が聞こえた。
「——おいおい……」
男の声だ。
やや年上。
三十代くらい。
「……先生、何考えてんだ……」
足音が近づく。
穂乃香のいる部屋の前で、止まった。
数秒の沈黙。
それから、恐る恐る、襖が少しだけ開いた。
覗いてきたのは、見知らぬ男性だった。
スーツ姿だが、警察でも役所でもない。
目が合った瞬間、男の目が大きく見開かれる。
「……女の子!?」
思わず、声が裏返った。
穂乃香は、反射的に背筋を伸ばす。
「あ、あの……」
男は、数秒そのまま固まっていた。
そして、何かを必死に考え始める。
——いや、待て。
——先生が?
——この歳で?
——いや、若い。薄い。色気もない。
男は、額を押さえた。
「……情婦、って線は無いな……」
ぼそっと呟く。
穂乃香は、完全に混乱していた。
「え……?」
男は咳払いをして、姿勢を正す。
「……失礼。
驚かせたな」
声のトーンが変わる。
慎重で、距離を測る声。
「先生の知り合いか?」
「せ、先生……?」
穂乃香は、首を傾げた。
その反応を見て、男は一瞬で察した。
——ああ。
——何も知らされてないやつだ、これ。
「……なるほど」
男は、それ以上踏み込まなかった。
視線が、部屋の隅の道具類に一瞬だけ向く。
触れない。
近づかない。
それが、この家のルールなのだと理解している。
「安心していい。
ここは安全だ」
そう言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。
「……少なくとも、
外よりはな」
穂乃香は、胸の奥で小さく息を吐いた。
「……あの」
勇気を出して、尋ねる。
「先生は……どちらに?」
男は、一瞬だけ黙った。
それから、肩をすくめる。
「呼ばれてる」
短く、それだけ。
そして、ぼそりと付け足した。
「……今回は、
ちゃんと連れて来いって言われるだろうな」
穂乃香は、その意味を理解できなかった。
ただ。
自分が、もう「何も知らないまま帰れる位置」にいないことだけは、なんとなく、分かっていた。
知らない部屋で、知らない世界の入口に立っている。
そんな感覚だけが、はっきりと胸に残っていた。




