酒気の主
川辺の空気は、はっきりと変わっていた。
甘さが、濃い。
鼻につく酒の匂いが、夜気に溶けきらず、地面に溜まっている。
恒一は、足を止めた。
ここだ。
水面が、泡立っている。
風は、動かない。
その中央に、赤い影が立っていた。
猩々。
今度は、はっきりとこちらを向いている。
酒に濡れた体毛。
人の理性を試すような、重たい気配。
猩々は一歩、前に出る。
言葉はない。
代わりに、酒気が一気に広がった。
恒一は、息を止めない。
木行を巡らせ、呼吸と気の流れを一致させる。
酔いは、来ない。
効かせる相手を、間違えた。
恒一は懐から先ほどの印を取り出し、地面に落とす。
紙は燃えない。沈むように、場に溶けた。
厭魅・厭勝。
短期限定の、拘束。
川の流れが、歪む。
猩々の足元から、見えない線が絡みつく。
動きが、鈍る。
恒一は、踏み込んだ。
今度は、退かせるためではない。
終わらせる。
低く、詠じる。
「風起青木
気巡八方」
風が生まれる。
猩々が腕を振るうが、動きは遅い。
「渦成刃路
――疾く、断て」
風は、渦となり、刃となる。
酒気を裂き、赤い体毛を切り裂き、妖力の芯を削る。
猩々が、初めて声を上げた。
怒りでも、痛みでもない。
拒絶だ。
自分が、この場に留まれなくなることへの。
風が、猩々を押し流す。
水面が大きく跳ね、赤い影は、川の奥へと引きずり込まれた。
匂いが、急速に薄れていく。
残ったのは、湿った夜気と、静かな水音だけだった。
恒一は、しばらくその場に立っていた。
追撃はしない。
これで終わりだ。




