大陸の夜
夜風は乾いていた。
日本の湿り気を帯びた空気とは違い、砂と土の匂いを含んで肺に入ってくる。街外れの古い建物群は灯りを落とし、遠くの露店の名残だけが赤く燻っていた。
人は集まっている。
だが誰も声を張らない。必要な言葉だけが短く交わされ、無駄な動きは一つもない。
その中に、立花恒一は静かに混じっていた。
外見だけを見れば、少年だ。
童顔で、背も高くない。十五、そこいらに見える。
だが、ここにいる誰一人として、そのことを口にしない。
彼が足を止めた瞬間、水が引くように道が自然に空いた。
「――師父」
低い声が一つ、確かめるように呼ぶ。
恒一は頷くだけで応えた。
呼び名に説明はない。
それで通じる関係が、ここにはある。
「数が多い」
男が短く告げる。
指差す先、建物の奥に、目には映らないが確かな違和感が渦を巻いていた。湿った悪意が絡まり、薄く広がっている。
「個体は弱い。だが――」
「分かっている」
恒一はそれ以上聞かなかった。
視線を巡らせ、風の流れを読む。
単体で強くはない。
だが数が揃い、互いに縋り合っている。
無理に焼けば、残滓が散る。
火行は、使わない。
「触るな。退け」
それだけで、人が動く。
誰も理由を問わない。
過去に、問わず従って助かった記憶があるからだ。
恒一は一歩前に出た。
足元の土に、わずかな印を刻む。
深く息を吸い、吐く。
詠唱は、声に出さない。
厭魅。
絡み合った意思をほどき、向けられた害意を剥がす。
続けて厭勝。
残った穢れを地に伏せ、還す。
風が、わずかに渦を巻いた。
空気が軽くなる。
先ほどまで肌に張り付いていた違和感が、嘘のように薄れていく。
「……終わりだ」
その言葉に、誰も安堵の声を上げない。
ただ、確かに終わったことを理解して、静かに頭を下げた。
人垣の中から、年配の男が一歩進み出る。
何年も前、別の街で、家族ごと救われた男だ。
「師父。今回も……」
恒一は首を振った。
「礼はいらない。
次に、誰かが困っていたら、同じように手を貸せ」
男は深く頭を下げた。
それは約束だった。
金より重く、長く残るもの。
ふと、恒一の脳裏に、別の声がよぎる。
――力は、早く使うものではない。
師父の声だ。
背中越しに聞いた、あの夜の言葉。
だから、彼は斬らない。
焼ける場面でも、還す道を探す。
恒一は踵を返した。
「師父、日本は……」
呼び止める声に、わずかに足を止める。
「問題ない」
振り返らずに答えた。
「俺が行く」
大陸の夜風が、彼の背を押す。
次に立つ場所がどこであろうと、やることは変わらない。
世界が見ないことにしたものを、引き受ける。
それが、彼の役目だった。




