表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

序章

 夜の住宅街は、酷く静かだった。

 街灯の下を風が抜け、舗道に落ちた枯葉がわずかに転がる。遠くで犬が一度だけ吠え、その声もすぐに途切れた。


 ここ数日、この辺りでは妙な噂が立っている。

 人が倒れる。

 夜道で、あるいは自宅で。

 争った形跡はなく、毒物も検出されない。防犯カメラには何も映らない。


 警察は事件性なしと判断し、病院は原因不明と首を振った。

 記録には残らない。ただ、倒れた人間だけが確かに存在している。


 それで、この国の仕組みはここで終わる。


 立花恒一は、少し離れた場所からその家を見ていた。

 古い木造住宅。二階の窓は暗く、生活感がない。周囲に人影はなく、救急車の音ももう聞こえなかった。


 この国では、仙人という言葉はとうに死語となっている。

 宗教でも、学問でも、制度でもない。そんなものは、もう必要とされていない。


 それでも――

 仕事だけは、消えていない。


 恒一は門扉の前で立ち止まり、深く息を吸った。

 誰に聞かせるでもなく、ほとんど囁くように、古い言葉を紡ぐ。


 風起而不鳴

 気巡而無形

 穢在彼方

 我此静然


 音は、夜に溶けた。

 だが空気が変わる。重たく淀んでいた気配が、ゆっくりとほどけていく。目に見えない何かが、ここにはもう留まれないと悟ったように、遠ざかっていった。


 恒一は、剣を抜かない。

 刃を振るう必要はないと判断した。ただそれだけだ。


 しばらくして、家の中の空気は完全に静まった。

 異変は終わった。だが、誰もそれを知ることはない。


 恒一は背を向け、来た道を戻る。

 感謝の言葉も、報告書も、記録もない。


 それでいい。

 そういう役目なのだから。


 世界が見なかったことにしたものを、代わりに始末する。

 それが、自分の仕事だ。


 夜の街に、再び風が吹いた。


恒一が角を曲がろうとした、その時だった。


 「――すみません」


 背後から、少し緊張を含んだ声がかかる。

 反射的に足を止め、振り返ると、街灯の下に制服姿の警察官が二人立っていた。


 「こんな時間に、この辺りで何を?」


 一瞬、間があった。

 逃げるという選択肢は、恒一の中には浮かばない。


 「……散歩です」


 事実ではある。

 説明を省いただけだ。


 警察官は懐中電灯で足元を照らし、恒一の顔を改めて見た。

 怪しい。

 深夜。

 住宅街。

 一人。


 条件は、揃っている。


 「身分証、ありますか」


 恒一は素直に頷き、懐から財布を取り出した。

 仙人であることと、職務質問を免除されることは――

 残念ながら、同義ではない。


 数分後。


 「……最近、この辺り物騒なんでね。

 今日はもう、真っ直ぐ帰ってください」


 「分かりました」


 頭を下げる。

 礼儀は、修業の一環だ。


 警察官たちが去った後、恒一は夜空を一度だけ見上げた。


 仕事は終わった。

 だが、この国での役目は、いつもこうだ。


 誰にも知られず、

 記録にも残らず、

 時々――補導される。


 それでも。


 世界が見なかったことにしたものを、代わりに始末する。

 その役目に、変わりはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ