序章
夜の住宅街は、酷く静かだった。
街灯の下を風が抜け、舗道に落ちた枯葉がわずかに転がる。遠くで犬が一度だけ吠え、その声もすぐに途切れた。
ここ数日、この辺りでは妙な噂が立っている。
人が倒れる。
夜道で、あるいは自宅で。
争った形跡はなく、毒物も検出されない。防犯カメラには何も映らない。
警察は事件性なしと判断し、病院は原因不明と首を振った。
記録には残らない。ただ、倒れた人間だけが確かに存在している。
それで、この国の仕組みはここで終わる。
立花恒一は、少し離れた場所からその家を見ていた。
古い木造住宅。二階の窓は暗く、生活感がない。周囲に人影はなく、救急車の音ももう聞こえなかった。
この国では、仙人という言葉はとうに死語となっている。
宗教でも、学問でも、制度でもない。そんなものは、もう必要とされていない。
それでも――
仕事だけは、消えていない。
恒一は門扉の前で立ち止まり、深く息を吸った。
誰に聞かせるでもなく、ほとんど囁くように、古い言葉を紡ぐ。
風起而不鳴
気巡而無形
穢在彼方
我此静然
音は、夜に溶けた。
だが空気が変わる。重たく淀んでいた気配が、ゆっくりとほどけていく。目に見えない何かが、ここにはもう留まれないと悟ったように、遠ざかっていった。
恒一は、剣を抜かない。
刃を振るう必要はないと判断した。ただそれだけだ。
しばらくして、家の中の空気は完全に静まった。
異変は終わった。だが、誰もそれを知ることはない。
恒一は背を向け、来た道を戻る。
感謝の言葉も、報告書も、記録もない。
それでいい。
そういう役目なのだから。
世界が見なかったことにしたものを、代わりに始末する。
それが、自分の仕事だ。
夜の街に、再び風が吹いた。
恒一が角を曲がろうとした、その時だった。
「――すみません」
背後から、少し緊張を含んだ声がかかる。
反射的に足を止め、振り返ると、街灯の下に制服姿の警察官が二人立っていた。
「こんな時間に、この辺りで何を?」
一瞬、間があった。
逃げるという選択肢は、恒一の中には浮かばない。
「……散歩です」
事実ではある。
説明を省いただけだ。
警察官は懐中電灯で足元を照らし、恒一の顔を改めて見た。
怪しい。
深夜。
住宅街。
一人。
条件は、揃っている。
「身分証、ありますか」
恒一は素直に頷き、懐から財布を取り出した。
仙人であることと、職務質問を免除されることは――
残念ながら、同義ではない。
数分後。
「……最近、この辺り物騒なんでね。
今日はもう、真っ直ぐ帰ってください」
「分かりました」
頭を下げる。
礼儀は、修業の一環だ。
警察官たちが去った後、恒一は夜空を一度だけ見上げた。
仕事は終わった。
だが、この国での役目は、いつもこうだ。
誰にも知られず、
記録にも残らず、
時々――補導される。
それでも。
世界が見なかったことにしたものを、代わりに始末する。
その役目に、変わりはない。




