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面倒な状況

 気配が、変わった。


 川沿いの空気に混じる酒の匂いが、急に濃くなる。


 恒一は足を止めた。


 街灯の届かない場所から、それは現れた。


 赤い体毛。

 人よりも少し大きい体躯。

 猿に似ているが、猿ではない。


 猩々(しょうじょう)だった。


 その左脇に、一人の少女を抱えている。


 意識を失ったままの、秋月穂乃香。


 猩々は何も言わない。

 こちらを見ても、表情らしい変化はない。


 ただ、酒の匂いだけが漂う。


 恒一は状況を確認する。


 人質あり。

 本体出現。

 距離、近い。


 ――想定が、一手遅れた。


 評価はそれだけで済ませる。

 感情を挟む余地はない。


 猩々は酒を好み、人の女を攫う。

 繁殖のためだ。


 ここで不用意に踏み込めば、少女が危険に晒される。


 恒一は呼吸を整え、意識を切り替えた。


 戦術を、組み直す。


 左手が、懐に入る。


 紙が一枚、滑り落ちる。


 符ではない。

 兵だ。


 紙兵術(しへいじゅつ)


 恒一が地面に一歩踏み出すと同時に、紙は風を孕み、形を変えた。


 人の姿に似た、薄い影。


 殺傷のためではない。

 妖力に反応し、動きを誘導するためのものだ。


 紙兵が、猩々の背後へ回る。


 音もなく、しかし確実に気配を立てて。


 猩々の注意が、そちらへ向いた。


 その瞬間。


 恒一は、既に間合いに入っている。


 狙うのは、左腕。


 利き腕ではない。

 だが、抱える力が弱まる。


 一閃。


 鋭い手刀が走る。深くは斬らない。

 骨も、腱も断たない。


 ただ、力が抜ける程度に。


 猩々が低く唸った。


 腕の力が緩む。


 穂乃香の身体が、僅かに傾く。


 恒一は、その瞬間を逃さない。


 既に、そこにいた。


 穂乃香を受け止め、抱き寄せる。


 地面に落ちる前に、確保。


 動作は、一瞬で終わった。


 猩々が振り返る頃には、恒一は距離を取っている。


 紙兵が、二体、三体と間に入る。


 猩々は追わない。

 いや、追えない。


 人質は失われ、目的は果たされていない。


 猩々の赤い目が、恒一を捉える。


 酒の匂いが、強くなる。


 恒一は一度だけ、その視線を受け止めた。


 そして、背を向ける。


 今は、撃破の段階ではない。


 少女を抱えたまま戦う理由は、どこにもない。


 距離を広げ、安全圏へ。


 紙兵が、ゆっくりと霧散する。


 猩々は動かない。


 ただ、そこに立ち、酒気を纏わせながら、こちらを見送っている。


 恒一は、穂乃香の呼吸を確認した。


 規則正しい。

 眠っているだけだ。


 状況は、最悪ではない。


 だが、楽観もできない。


 ――本体戦は、これからだ。


 恒一は足を止めず、闇の中を離れていった。


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