水と符の応酬
紙の擦れる音が、夕暮れの道に薄く走った。
瀾書生の袖口から、白い符が二枚、三枚と滑り出る。
指先に挟まれたそれは、ただの紙に見えるのに、空気へ触れた途端、路地の湿り気だけを吸い上げるみたいに冷たく光った。
穂乃香の肩が小さく強張る。
鞄の中へ入っていた指が、符の端を捉えた。
瀾書生はその動きを見て、楽しげに眼鏡の位置を直した。
「安心してください」
声はやわらかい。
けれど、足元の水たまりはその声と逆に静かさを失い、細かな波紋を広げていた。
「殺すつもりはありません」
符が、ひゅ、と空を切る。
次の瞬間、路面の湿気が白く凍った。
足元から細い氷の鎖が伸びる。一本ではない。二本、三本、絡みつくように地面を這い、真っ先に穂乃香の足首へ食い込んだ。
冷たさが布越しに走る。
穂乃香の息が止まる。
身体の反応が半拍遅れ、それでも鞄の中の符を引き抜こうと指先がもがいた。
その前に、恒一が一歩入った。
靴底がアスファルトを擦る、ごく短い音。
彼は何も構えない。伸ばした手が、穂乃香へ絡みついた氷鎖の一部へ触れる。
ぱき、と乾いた音がした。
氷が砕ける。
大きくではない。ただ、術の芯だけが折れたみたいに、鎖は一息で白い霧へ崩れた。
瀾書生の眉が、ほんのわずかに動く。
「……?」
眼鏡の奥の目が、初めて恒一へ止まった。
清磬はまだ動かない。
白い衣の裾だけが、夕方の湿った空気にかすかに揺れている。
穂乃香はそこでようやく呼吸を戻し、鞄から符を抜いた。
紙の角が指先に触れる。冷えた感覚が少しだけ落ち着きを戻した。
瀾書生はすぐに笑みを整えた。
崩れたのは一瞬だけだった。
「妙ですね」
彼は指先で新しい符を挟む。
今度は一枚ではない。扇のように三枚。
「ですが、術の相性というものはあります」
袖が翻る。
符が散る。
路肩の水たまりだけでなく、排水溝の影、塀に残った湿り気、空気そのものに溶けていた水分までが一度に引き寄せられた。
白い糸のような氷が道の幅いっぱいに走る。
穂乃香の指先が震え、すぐに符を構え直す。
今度は止まらない。
嫌な冷たさが足元を這うより先に、符を前へ出す。
紙の端が空気を切った。
細い衝突音。
氷の軌道がわずかに逸れる。
完全には防げない。
それでも、一拍だけ稼げた。
恒一がその隙に間合いへ入る。
瀾書生の表情が、ここで初めてはっきりと変わった。
整えた笑みの下に、計算の狂いが見える。
彼は半歩下がり、手首を返す。
袖の奥から、今度は色の違う符が現れた。白ではない。薄く赤い線が走っている。
空気がぬるくなる。
穂乃香の喉が細く鳴る。
瀾書生の声も、さっきまでより少し低かった。
「……なら、こちらで」
彼は赤い符を二本の指で立てた。
夕陽の残りが、その縁だけを鈍く照らす。
「血水呪」
その一言で、道の空気が重く沈んだ。
穂乃香は反射的に恒一を見る。
恒一はもう止まっていた。前へ出たまま、瀾書生の指先だけを見ている。
瀾書生の符が燃えるように崩れ、赤い粒が散った。
粒は地面へ落ちず、湿った空気へ溶ける。その瞬間、見えない何かがじわりと皮膚へまとわりつくような感覚が走った。
穂乃香の肩が強く跳ねる。
腕の内側がひやりと冷え、次に遅れて鈍い圧迫感が来る。
恒一が短く息を吐いた。
次の瞬間、足元を踏み換える。
音はほとんどしなかった。
ただ、空気の張りだけが変わる。
瀾書生の目が大きく開く。
何かが、切れた。
見えない糸のような圧が、一息にほどけていく。
穂乃香の腕に絡みついていた重さが消え、夕方の空気が戻る。
瀾書生の指先が止まる。
「……おかしい」
その声はもう、さっきまでの丁寧な調子を保ちきれていなかった。
彼は一歩だけ退く。
靴裏が水を踏み、ぴしゃりと小さく鳴る。
「どういうことだ?」
今度は誰に聞かせるでもない。
計算の式が崩れた時の声だった。
恒一は答えない。
ただ、瀾書生との距離をさらに半歩だけ詰める。
それだけで十分だった。
瀾書生の呼吸が、初めて目に見えて乱れる。
眼鏡の奥の視線が、恒一を測りかねるように揺れた。
清磬の白い瞳が、そこでわずかに細くなる。
夕暮れの明かりは、もうかなり薄い。
住宅街の影がじわじわと道へ落ち、瀾書生の足元の水だけが不自然に淡く光っていた。
穂乃香は符を構えたまま、黙って立つ。
さっきまでの冷たさはまだ指に残っている。
けれど、もう足は止まっていなかった。
瀾書生の指先が、次の符を探すように袖の中でもつれる。
そのほんの一拍の乱れが、もう誤魔化せないほど大きく見えた。




