瀾書生崩壊
瀾書生の袖の中で、紙が小さく鳴った。
その音はさっきまでの滑らかさを失っていた。
整った所作のはずなのに、指先だけが符の角へ半拍遅れる。
夕暮れの光が眼鏡の縁に残り、彼の横顔だけを細く冷やして見せた。
恒一は変わらない。
歩幅も、呼吸も、視線も。
ただ静かに前へ出る。
その一歩ごとに、瀾書生の足元の水が細かく揺れた。
「……おかしい」
瀾書生の唇が引きつる。
すぐに笑みに戻そうとして、戻りきらない。
「どういうことだ?」
問いかけた声は、もう誰かに聞かせるためのものではなかった。
彼自身の計算へ向けた声だった。
恒一は答えない。
指先ひとつ動かさず、相手の間合いへさらに半歩だけ入る。
穂乃香はそこで息を浅くした。
符の端が指に当たる。
冷たさが、今は少しだけ頼りになる。
瀾書生が歯を食いしばる。
次の符を引き抜く手つきだけが、はっきりと焦っていた。
「……舐めるな」
声が低く沈む。
袖から飛び出した符は、今度は一枚ではない。
白、白、赤、白――色の違うものがまとめて散る。
路面の湿り気が一斉に持ち上がり、夕方の空気がひやりと張り詰めた。
水が糸になる。
糸が凍り、針のように細く尖る。
穂乃香の肩が跳ねる。
次の瞬間には、符を前へ出していた。
紙が空気を切る乾いた音。
細い氷針がわずかに逸れ、塀へ突き立つ。
白い霜が花のように広がった。
瀾書生の目が、穂乃香を見た。
その視線に、最初の余裕はもうない。
「見鬼の少女が……」
ほんの一瞬、呼吸が詰まる。
彼の指先が震え、そのまま恒一へ向いた。
「貴方は――」
そこで言葉が止まる。
恒一が距離を詰めたからだ。
踏み込みは短い。
なのに、それだけで水の術式がもう一度ぶれた。
瀾書生の表情が崩れる。
「……何故だ」
小さく漏れたその声に、夕方の風がかぶさった。
恒一は変わらず無言のまま、瀾書生の懐へ入る。
瀾書生が反射的に腕を引き、符を構える。
遅い。
恒一の手が、符へ届く前の空気ごと払った。
乾いた音とともに、符が折れる。
術式の芯が抜け、足元の氷がまとめて白い靄へ崩れた。
瀾書生の肩が大きく揺れる。
「何故だ……」
喉が鳴る。
眼鏡の奥の目が、初めてあからさまに見開かれた。
「何故だ何故だ何故だっ!」
その叫びで、丁寧に整えていた声が一気に剥がれた。
住宅街の夕方へ、不釣り合いな怒声が響く。
穂乃香の指先が強く符を握る。
清磬の白い視線が、わずかに下がった。
瀾書生はもう笑っていない。
長い髪が乱れ、頬へ貼りつき、眼鏡の位置も少しずれている。
「三十年だぞ……!」
彼の声が裂ける。
誰へ向けたものでもない。
積み上げたものの長さだけを、必死に掴み直す声だった。
「理は合っている! 術式は正しい! 貴方のような――」
息が切れる。
その次の瞬間、彼の顔が歪んだ。
「貴様……!」
穂乃香の肩が、ほんの少しだけ強張る。
変わった。
そのことは、言葉より先に声で分かった。
瀾書生はもう隠さない。
怒りと焦りと、崩れた自尊心をそのまま眼鏡の奥で剥き出しにしている。
「貴様、何をした!」
恒一はそれにも答えなかった。
ただ、瀾書生を見る。
静かな目だった。
怒ってもいない。
笑ってもいない。
その何もなさが、瀾書生をさらに追い詰める。
「モルモットがぁっ!」
叫びと同時に、袖から符が束で飛ぶ。
紙の音が乱れ、術式も乱れる。
水は集まりきらず、氷は半端な形のまま宙へ散った。
恒一の袖がわずかに揺れる。
次の瞬間、符の束は道の端へ叩き落とされていた。
乾いた音。
折れた紙片が、濡れたアスファルトに貼りつく。
瀾書生の呼吸が、そこで完全に崩れた。
後退る。
一歩。
もう一歩。
靴裏が水を踏み、ぴしゃ、と浅い音がする。
清磬がそこで初めて口を開いた。
「研究者だな」
澄んだ声だった。
夕暮れの空気へ、細い刃のように落ちる。
「戦い慣れていない」
瀾書生の眼鏡が、またずれた。
彼はそれを直そうとして、指先が滑る。
夕陽はもう低い。
住宅街の塀が長い影を落とし、彼の足元だけが水気を鈍く照り返していた。
瀾書生の喉が上下する。
怒鳴り返すより先に、息が乱れる。
その一拍のあとで、彼の袖の中から今度は灰色の符が現れた。
紙の擦れる音だけは、妙に静かだった。
穂乃香の指先が止まる。
逃げる。
そう分かる程度には、彼の余裕はもう残っていなかった。




