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水面から来る者

 水たまりの波紋が、ゆっくりと重なった。


 夕暮れの光がその丸い揺れに砕け、赤とも橙ともつかない色が路肩へ滲む。

 次の瞬間、水面の中心だけが不自然に暗く沈んだ。


 空気が、ひやりと薄くなる。


 穂乃香の指先が鞄の肩紐をきつく掴んだ。


 水の中から、影が立ち上がる。


 最初に見えたのは靴先だった。

 続いて細い脚、裾の長い衣、黒い影を引くような上着。

 最後に、人の形が水面からそのまま抜け出すみたいに現れる。


 男は一歩、濡れた路面へ足を置いた。


 長い髪が頬へ落ちる。

 そのまま彼は、顎元へ添えた片手を滑らせるように持ち上げ、前髪をかき上げた。

 遅れて、もう片方の指先が眼鏡の縁を押し上げる。


 レンズが夕陽を受けて、一瞬だけ光った。


 気障な仕草だった。

 なのに、その周囲だけが妙に静かで、冗談には見えない。


 恒一は動かない。

 ただ、相手との間合いだけを測るように、わずかに肩の向きを変えた。


 清磬の白い衣の裾が、風もないのに細く揺れる。


 男は三人を見渡した。

 見定めるような目だった。

 品定めにも似ているのに、どこか楽しんでいる。


 穂乃香の喉が小さく鳴る。


 男はゆっくりと口元を緩めた。


「――邪仙、瀾書生と申します」


 声は低く、よく通った。

 丁寧なのに、その奥に人を人として見ていない冷たさがある。


 彼は軽く会釈までしてみせる。

 夕暮れの住宅街には似合わない所作だった。


 恒一の目がわずかに細まった。


「邪仙か」


 短い声だった。


 瀾書生はその言葉に気分を害した様子もなく、むしろ面白がるように眼鏡の位置を直した。


「ええ。そう身構えなくて結構ですよ」


 水たまりの縁に、もうひとつ小さな波紋が広がる。

 彼の足元だけ、まだ水の気配が生きている。


「今日は少し、確認したいことがありましてね」


 その視線が、まず穂乃香へ落ちる。


 穂乃香の肩がわずかに強張る。

 鞄の中、符の位置を確かめるように指先が動いた。


 瀾書生はそれを見逃さない。

 薄く笑う。


「やはりあなたでしたか」


 穂乃香の呼吸が、一拍だけ浅くなる。


「……私を知っているの」


 瀾書生は答える前に、わずかに首を傾けた。

 研究結果を披露する教師のような、嫌に落ち着いた仕草だった。


「ええ。少し前から」


 住宅街の上を、遠くの電車の音がかすめていく。

 そのかすかな震えの中で、瀾書生の声だけが妙にはっきり残った。


「見鬼の少女。珍しいものですからね」


 彼の口元は穏やかなままだ。

 けれどその言い方は、珍しい標本を見つけた時のものに近い。


 恒一が半歩だけ前へ出る。

 足音はほとんどしない。


「用件を言え」


 瀾書生の視線がようやく恒一へ移る。


 その目が、ほんの一瞬だけ値踏みするように細くなる。

 だが次にはもう、興味を失ったように流れた。


「慌てないでください」


 彼はまた髪を払い、眼鏡の縁を撫でた。


「順にお話ししますよ」


 夕陽が、彼の横顔を細く照らしていた。

 その光はやわらかいはずなのに、瀾書生の輪郭だけは妙に冷たく見えた。


 穂乃香は黙って相手を見た。

 水面から現れた男の足元では、まだ小さな波紋が途切れずに広がっている。

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