帰ってくる風
地下の空気が、わずかに動いた。
ほんの少しだけ、外の匂いが混ざる。
階段の上で、木が鳴った。
それから、低い声。
「……地下か」
恒一だった。
足音がゆっくりと降りてくる。
急いではいない。
一段。
また一段。
地下の灯りの中に姿が現れる。
外の匂いを少し連れてきた風。
恒一は地下を見回す。
萃華。
函。
穂乃香。
そして――
壁際に座る清磬。
恒一の眉が、ほんのわずか動いた。
「清磬」
呼ぶ声は静かだった。
問い詰める調子ではない。
ただ、そこに居ることを確かめるような声。
清磬は答えない。
視線を落としたまま、壁に寄りかかっている。
恒一はそれ以上聞かなかった。
代わりに視線を函へ落とす。
「……函か」
小さく言う。
萃華が肩をすくめる。
「うん。ちょっと進んだ」
恒一は函を一瞬だけ見たあと、
穂乃香へ視線を向けた。
「触れたのか」
穂乃香は小さく頷く。
「……はい」
恒一も小さく頷く。
「そうか」
それだけだった。
褒めるわけでもない。
大げさに驚くわけでもない。
ただ、受け取る。
その静かな一言だけで、
地下の気配がほんの少し変わった。
萃華が函を指で軽く叩く。
「名の話してた」
恒一は少しだけ首を傾げる。
「名?」
萃華は軽く笑う。
「立華」
その名前を聞いても、
恒一の表情はほとんど変わらない。
ただ一度だけ視線を落とす。
「……そうか」
それだけ言う。
自分の名なのに、
特別な感情を見せる様子はない。
恒一は函の横に立つ。
少しだけ地下の様子を見渡して、、
それから穂乃香を見る。
「無理はするな」
静かな声だった。
それだけ。
それ以上は言わない。
地下が重い理由を聞こうともしない。
ただ、そこに立つ。
その静かな存在が、
逆に空気を揺らしていた。
壁際で、清磬の指がわずかに動く。
衣の上で、ほんの少しだけ握られる。
責めている者はいない。
恒一も。
萃華も。
穂乃香も。
誰も何も言っていない。
それでも。
胸の奥に返ってくるのは、
自分の言葉だった。
――封神は軟弱が恐れるもの。
その言葉が、
今は違う形で静かに響いている。
清磬は顔を上げない。
恒一も、それ以上何も言わない。
ただ地下の青い灯りの中で、
風を連れて帰ってきた人の気配だけが、
静かにそこにあった。
そして、穂乃香は――
その二人の間にある
見えない距離から、目を離せなかった。




