清磬
しばらく、誰も動かなかった。
函の上を撫でていた青白い光が、かすかに揺れる。
金線の縁だけが冷たく浮き、地下の空気を細く区切っていた。
穂乃香は、階段の途中に立つ清磬を見上げる。
白い衣は、さっきと同じ形のままだ。
裾も乱れていない。
背筋も伸びている。
それなのに、何かが違った。
立っている。
ただそれだけの姿が、少しだけ危うい。
清磬は函を見ていなかった。
どこを見るでもなく、少しだけ下へ落ちた視線が、灯りと影の境目で止まっている。
睫毛ひとつ分の沈黙が、妙に長い。
萃華も声をかけない。
淵流も、今は何も言わない。
地下の奥で、ちり、と小さな金具が鳴った。
その音でようやく、清磬の唇がわずかに動く。
「……私は」
そこで止まる。
穂乃香の肩が、ほんの少しだけ固まる。
清磬が言い淀むのを、穂乃香はほとんど見たことがなかった。
言うべきことは言う。
判断したことはそのまま置く。
そういう話し方しかしない相手だと思っていた。
清磬は、もう一度だけ口を開いた。
「先に……私は」
今度も最後まで続かない。
白い指先が、衣の袖口でほんのわずかに止まる。
握るほどではない。
でも、そこに何か引っかかったように見えた。
萃華が、ようやく静かに言う。
「清磬」
軽い口調ではなかった。
でも、やわらかくもない。
名前を置いただけの声。
清磬はその呼びかけにすぐには応じなかった。
返事の代わりみたいに、喉が一度だけ小さく動く。
「封神は……」
硬い声だった。
けれどいつものようなまっすぐさがない。
「軟弱が恐れるものだと……そう言った」
穂乃香の胸が、ひとつだけ強く鳴る。
その言葉は覚えていた。
あの夜、鎮魂のあと。
静かな声で、教えのように置かれた一言。
封神もまた天命。
それを焼くとは愚かだ。
そして、軟弱は封神を恐れる。
あの時の清磬は、何も間違っていない顔をしていた。
少なくとも、穂乃香にはそう見えた。
けれど今、階段の途中に立つ白い影は、その言葉の上にうまく立てていない。
「立華は……」
清磬の声が、そこでごくわずかに薄くなる。
「最初から……そこに触れていたのか」
問いかけというより、確かめるような声だった。
萃華はすぐには答えなかった。
代わりに函の横へ指を置き、こん、と軽く叩く。
乾いた音がひとつだけ鳴る。
「うん」
短い返事。
「かなり前からね」
それ以上、言葉を足さない。
けれど、その一言で十分だった。
清磬の指先が、そこで初めてはっきり止まる。
穂乃香は息を浅くした。
何かが、ようやく噛み合ってしまったのだと分かった。
今まで別々だったものが、一つの線になって、清磬の中へ落ちていく。
封神。
立華。
最初から。
近い。
予約。
そして、自分がその相手を前にして軽く言った言葉。
清磬が、一段だけ下りた。
足音はほとんどしない。
でも、その一歩だけがやけに重く見える。
さらにもう一段。
そこで止まるかと思ったのに、次の瞬間、清磬は壁際へ身体を寄せた。
座るというより、支えを探したような動きだった。
白い衣が、階段脇の壁に静かに落ちる。
背を預け、そのまま、ゆっくり腰を落とす。
膝を立てるでもなく、裾を乱すでもなく、そのまま小さく沈む。
穂乃香の喉が細くなる。
清磬は視線を落としていた。
けれど、項垂れているわけではない。
ただ、立ったままでいられなくなった。
そんなふうに見えた。
「……何を」
声が小さい。
「私は、何を言ったのだ」
その言葉だけが、地下の青白い光の中で妙にはっきり響いた。
萃華は、すぐには答えなかった。
答えようともしなかった。
それがたぶん、いちばん正しい気がした。
清磬は自分で見つけなければいけない。
誰かに慰めの形で渡されたら、たぶん違う。
淵流が、首元から静かに言う。
「知る前の言葉は、罪ではない」
低く、揺れのない声だった。
「だが、知った後は残る」
清磬の肩が、ほんのわずかに揺れる。
泣くわけでもない。
顔を覆うわけでもない。
それでも、その一拍だけで十分だった。
穂乃香は階段の途中にいる清磬を見つめた。
いつもは遠い人だと思っていた。
理知的で、硬くて、簡単には揺れない。
触れようとしても、半歩先にいるような人。
その清磬が、今は壁際に座り込んでいる。
大きく崩れてはいない。
でも、静かなまま沈んでいる。
穂乃香の胸の奥が、小さく痛む。
前なら、こんなふうに弱る清磬を見たら、少しだけ安堵したかもしれない。
自分だけが置いていかれているわけじゃないと、どこかで思えたかもしれない。
けれど今は、そうならなかった。
ただ、見ていられないと思った。
清磬はやっと、顔を上げた。
視線は萃華ではなく、函でもなく、どこか遠いところへ向いている。
「封神は、軟弱の恐れるものではなかった」
静かな声だった。
それは懺悔でも反省でもなく、
今ようやく事実になった言葉のように聞こえた。
「立華を……」
そこで、また少しだけ止まる。
「失うものだった」
穂乃香の指先が、函の縁でかすかに冷える。
失う。
その言葉は、自分の中にもすでに引っかかっていた。
でも清磬の口から出ると、急に形を持つ。
萃華がそこでようやく息をついた。
「あー……」
声は軽い。
けれど、軽く流すためのものではない。
「今そこまで一気に抱えなくていいよ、清磬」
それから少しだけ首を傾ける。
「まだ失ってないし」
慰めの形をしているのに、甘くはなかった。
清磬はその言葉にもすぐには答えない。
ただ、膝の上に置かれた手が、ほんの少しだけ動く。
「……分からない」
低い声。
「分からぬまま、言っていた」
それが今の清磬にとって、いちばん大きいのだと穂乃香にも分かった。
知らなかった。
知らないまま、軽く言った。
その言葉が、慕っていた相手の上へ落ちていた。
その事実の重さに、今ようやく触れてしまった。
地下の灯りが、青く函を照らしている。
金線は変わらず綺麗なのに、今は少しも飾りには見えない。
穂乃香は、自分の手を見た。
函に触れた指先は、まだ冷たい。
名。
定め。
封神。
失う。
さっきまで別々だった言葉が、今は清磬の白い沈黙の中で全部繋がってしまった。
萃華はそれ以上、何も言わなかった。
淵流も黙る。
ただ、壁際に座り込んだ清磬の白い影だけが、地下の青い光の中で静かに揺れていた。




