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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第23章 失う名を知る夜
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清磬

 しばらく、誰も動かなかった。


 函の上を撫でていた青白い光が、かすかに揺れる。

 金線の縁だけが冷たく浮き、地下の空気を細く区切っていた。


 穂乃香は、階段の途中に立つ清磬を見上げる。


 白い衣は、さっきと同じ形のままだ。

 裾も乱れていない。

 背筋も伸びている。


 それなのに、何かが違った。


 立っている。

 ただそれだけの姿が、少しだけ危うい。


 清磬は函を見ていなかった。


 どこを見るでもなく、少しだけ下へ落ちた視線が、灯りと影の境目で止まっている。

 睫毛ひとつ分の沈黙が、妙に長い。


 萃華も声をかけない。

 淵流も、今は何も言わない。


 地下の奥で、ちり、と小さな金具が鳴った。

 その音でようやく、清磬の唇がわずかに動く。


「……私は」


 そこで止まる。


 穂乃香の肩が、ほんの少しだけ固まる。


 清磬が言い淀むのを、穂乃香はほとんど見たことがなかった。

 言うべきことは言う。

 判断したことはそのまま置く。

 そういう話し方しかしない相手だと思っていた。


 清磬は、もう一度だけ口を開いた。


「先に……私は」


 今度も最後まで続かない。


 白い指先が、衣の袖口でほんのわずかに止まる。

 握るほどではない。

 でも、そこに何か引っかかったように見えた。


 萃華が、ようやく静かに言う。


「清磬」


 軽い口調ではなかった。

 でも、やわらかくもない。


 名前を置いただけの声。


 清磬はその呼びかけにすぐには応じなかった。

 返事の代わりみたいに、喉が一度だけ小さく動く。


「封神は……」


 硬い声だった。

 けれどいつものようなまっすぐさがない。


「軟弱が恐れるものだと……そう言った」


 穂乃香の胸が、ひとつだけ強く鳴る。


 その言葉は覚えていた。

 あの夜、鎮魂のあと。

 静かな声で、教えのように置かれた一言。


 封神もまた天命。

 それを焼くとは愚かだ。

 そして、軟弱は封神を恐れる。


 あの時の清磬は、何も間違っていない顔をしていた。

 少なくとも、穂乃香にはそう見えた。


 けれど今、階段の途中に立つ白い影は、その言葉の上にうまく立てていない。


「立華は……」


 清磬の声が、そこでごくわずかに薄くなる。


「最初から……そこに触れていたのか」


 問いかけというより、確かめるような声だった。


 萃華はすぐには答えなかった。

 代わりに函の横へ指を置き、こん、と軽く叩く。


 乾いた音がひとつだけ鳴る。


「うん」


 短い返事。


「かなり前からね」


 それ以上、言葉を足さない。


 けれど、その一言で十分だった。


 清磬の指先が、そこで初めてはっきり止まる。


 穂乃香は息を浅くした。


 何かが、ようやく噛み合ってしまったのだと分かった。

 今まで別々だったものが、一つの線になって、清磬の中へ落ちていく。


 封神。

 立華。

 最初から。

 近い。

 予約。


 そして、自分がその相手を前にして軽く言った言葉。


 清磬が、一段だけ下りた。


 足音はほとんどしない。

 でも、その一歩だけがやけに重く見える。


 さらにもう一段。

 そこで止まるかと思ったのに、次の瞬間、清磬は壁際へ身体を寄せた。


 座るというより、支えを探したような動きだった。


 白い衣が、階段脇の壁に静かに落ちる。

 背を預け、そのまま、ゆっくり腰を落とす。

 膝を立てるでもなく、裾を乱すでもなく、そのまま小さく沈む。


 穂乃香の喉が細くなる。


 清磬は視線を落としていた。

 けれど、項垂れているわけではない。


 ただ、立ったままでいられなくなった。

 そんなふうに見えた。


「……何を」


 声が小さい。


「私は、何を言ったのだ」


 その言葉だけが、地下の青白い光の中で妙にはっきり響いた。


 萃華は、すぐには答えなかった。

 答えようともしなかった。


 それがたぶん、いちばん正しい気がした。


 清磬は自分で見つけなければいけない。

 誰かに慰めの形で渡されたら、たぶん違う。


 淵流が、首元から静かに言う。


「知る前の言葉は、罪ではない」


 低く、揺れのない声だった。


「だが、知った後は残る」


 清磬の肩が、ほんのわずかに揺れる。


 泣くわけでもない。

 顔を覆うわけでもない。

 それでも、その一拍だけで十分だった。


 穂乃香は階段の途中にいる清磬を見つめた。


 いつもは遠い人だと思っていた。

 理知的で、硬くて、簡単には揺れない。

 触れようとしても、半歩先にいるような人。


 その清磬が、今は壁際に座り込んでいる。


 大きく崩れてはいない。

 でも、静かなまま沈んでいる。


 穂乃香の胸の奥が、小さく痛む。


 前なら、こんなふうに弱る清磬を見たら、少しだけ安堵したかもしれない。

 自分だけが置いていかれているわけじゃないと、どこかで思えたかもしれない。


 けれど今は、そうならなかった。


 ただ、見ていられないと思った。


 清磬はやっと、顔を上げた。


 視線は萃華ではなく、函でもなく、どこか遠いところへ向いている。


「封神は、軟弱の恐れるものではなかった」


 静かな声だった。


 それは懺悔でも反省でもなく、

 今ようやく事実になった言葉のように聞こえた。


「立華を……」


 そこで、また少しだけ止まる。


「失うものだった」


 穂乃香の指先が、函の縁でかすかに冷える。


 失う。


 その言葉は、自分の中にもすでに引っかかっていた。

 でも清磬の口から出ると、急に形を持つ。


 萃華がそこでようやく息をついた。


「あー……」


 声は軽い。

 けれど、軽く流すためのものではない。


「今そこまで一気に抱えなくていいよ、清磬」


 それから少しだけ首を傾ける。


「まだ失ってないし」


 慰めの形をしているのに、甘くはなかった。


 清磬はその言葉にもすぐには答えない。

 ただ、膝の上に置かれた手が、ほんの少しだけ動く。


「……分からない」


 低い声。


「分からぬまま、言っていた」


 それが今の清磬にとって、いちばん大きいのだと穂乃香にも分かった。


 知らなかった。

 知らないまま、軽く言った。

 その言葉が、慕っていた相手の上へ落ちていた。


 その事実の重さに、今ようやく触れてしまった。


 地下の灯りが、青く函を照らしている。

 金線は変わらず綺麗なのに、今は少しも飾りには見えない。


 穂乃香は、自分の手を見た。

 函に触れた指先は、まだ冷たい。


 名。

 定め。

 封神。

 失う。


 さっきまで別々だった言葉が、今は清磬の白い沈黙の中で全部繋がってしまった。


 萃華はそれ以上、何も言わなかった。

 淵流も黙る。


 ただ、壁際に座り込んだ清磬の白い影だけが、地下の青い光の中で静かに揺れていた。

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