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風、渦となりて

 夜は、静かに深まっていた。


 街灯の光が、川面に細く揺れている。

 人通りは減り、車の音もまばらだ。


 恒一は、川沿いの歩道をゆっくりと進んでいた。

 足音は抑えているが、隠れてはいない。


 隠れる必要がないからだ。


 風が、止んだ。


 それまで僅かに揺れていた草木が、

一斉に静止する。


 水面が、わずかに歪んだ。


 恒一は足を止める。


 ――来る。


 視線を上げるより早く、影が動いた。


 低い位置。

 素早い。

 猿に似た小さな影が、二つ、三つ。


 街灯の届かない場所を選ぶように、音もなく走る。


 酒の匂いがした。

 甘く、鼻につく。


 恒一は、深く息を吸い、吐く。


 恐怖はない。

 高揚もない。


 ただ、評価する。


 ――想定より、数が多い。


 だが、問題はない。


 恒一は一歩踏み出し、地面に軽く足を置いた。


 その瞬間、空気が変わる。


 風が、木々の間を走った。

 枝葉がざわめき、音が広がる。


 恒一は、低く詠じた。


「風起青木

 気巡八方」


 風が集まる。

 ただの突風ではない。


 流れが、形を持つ。


「渦成刃路

 ――疾く、還れ」


 空気が、渦を巻いた。


 見た目には、風が急に強まっただけだ。


 ゴミ袋が舞い、看板が軋み、自転車が倒れる。


 だが、その中心では、風は刃となって走っていた。


 猿のような眷属が、悲鳴を上げる。


 切り裂かれる感覚。

 だが、致命傷には至らない。


 逃げようとしたその瞬間、風の流れが変わる。


 渦が、方向を持つ。


 逃げ道は、一つだけ。


 川の方。


 水面が、大きく揺れた。


 酒の匂いが、急に濃くなる。


 眷属たちは、自分の意思とは無関係に引きずられる。


 何かに、呼ばれている。


 赤い影が、水辺の奥で蠢くのが見えた。


 恒一は、それ以上踏み込まない。


 刃を解き、風を散らす。


 数秒後、街は元の静けさを取り戻した。


 残ったのは、倒れた自転車と、風に煽られた落ち葉だけ。


 通りがかった人間の目には、ただの突風事故に見えるだろう。


 恒一は、川の流れを見つめた。


 ――本体がいる。


 位置も、距離も、まだ測りきれない。


 今は、これで十分だ。


 恒一は背を向け、歩き出した。


 夜は、ようやく動き始めたばかりだった。

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