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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第23章 失う名を知る夜
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戸口の向こう

 清磬は、階段の途中で止まっていた。


 白い衣の裾が、上から落ちる灯りの境目に静かに触れている。

 それ以上は下りてこない。

 けれど、ただ立っているだけで、戸口の空気が少しだけ張る。


 穂乃香の肩が、ほんのわずかに固まる。


 清磬の視線は、まず萃華でも淵流でもなく、台の上の函へ落ちた。

 それから、穂乃香の左手に残るわずかな強張りを見る。


「……早いな」


 声は低く、いつも通り硬い。


 萃華が首だけで振り返る。


「そっちの“早い”は、来るのが? 触らせるのが?」


「後者だ」


 即答だった。


 清磬は階段の途中に立ったまま、函から視線を外さない。


「まだ位相が浅い。触れれば、返りが来る」


 穂乃香は小さく瞬きをする。


 位相。

 返り。


 言葉の意味は分かる。

 でも、どういうものとして言っているのかは、まだ輪郭が掴みきれない。


 萃華は肩をすくめる。


「だからこそ今日触らせたんだけどね。深いとこ行く前に、“返り”がどう来るか知っといた方が後で楽だし」


 軽い口調のままなのに、言っていることは動かない。


 清磬はそこで、ほんの半拍だけ沈黙した。


「理は通る」


 短い一言。

 認めたのだと分かる。


 それから、ようやく視線が穂乃香へ向いた。


 穂乃香の喉が、かすかに鳴る。


「函は、容れ物ではない」


 清磬の声は静かだった。

 地下の青白い光の中で、その硬さだけがまっすぐ響く。


「境目を定めるものだ」


 穂乃香は函を見る。


 暗い木地。

 細い金線。

 閉じた蓋。


 さっき触れた冷たさが、まだ指先の奥に残っていた。


「……境目」


 小さく繰り返すと、清磬は頷いた。


「外と内。起きているものと眠るもの。名のあるものと、まだ名に届かぬもの」


 最後の言葉で、穂乃香の指先がほんの少し止まる。


 名。


 それは人間の感覚だと、ただの呼び名だ。

 でも今の清磬の言い方は、それとは違った。


 萃華が函の縁を指で軽くなぞる。


「人の名前ってさ、こっちだとだいぶ意味変わるんだよね」


 相変わらず軽い調子。

 でも、視線だけは函から外れない。


「学校で呼ばれてる名前とか、戸籍とか、そういうのは人間側の名前。で、仙人とか妖の側の“名”は、もっと近いとこに刺さるやつ」


 穂乃香は清磬を見る。

 清磬は階段の途中に立ったまま、静かに続きを受けた。


「位相を縛る」


 短い声。


「在り方を定める」


 その言葉が落ちた時、地下の空気がまた少しだけ静まった気がした。


 函の金線が、灯りの角度でかすかに光る。

 穂乃香はそれを見つめたまま、小さく息を吸う。


「じゃあ……」


 言葉にする前に、喉が少しだけ詰まる。


「名があるって、そのまま……運命みたいなものなんですか」


 萃華がそこで、ほんの少しだけ笑った。


「お、いいとこ行くじゃん」


 軽い。

 でも、茶化してはいない。


「まあ、そうだね。呼び名っていうより、寄ってく方向かな」


 淵流が首元で低く言う。


「名は飾りではない」


 白い頭がわずかに上がる。


「与えられれば、在り方へ寄せられる」


 穂乃香の肩が、また小さく強張る。


 寄せられる。


 それは、自分で決めるより先に、道が決まっていくような響きだった。


 萃華はその反応を見て、少しだけ声を落とす。


「もちろん、今すぐ穂乃香がどうこうって話じゃないよ」


 函から指を離す。


「でも、このまま術を積んで、位相が整って、ちゃんと昇っていくとしたら――そのうち、穂乃香も“名を持つ側”にはなる」


 穂乃香の指先が、今度ははっきり止まった。


「……私も?」


 思ったより小さい声が出る。


 萃華はあっさり頷く。


「そ。見鬼あるし、入口にはもう立ってるし」


 それから、少しだけ肩を揺らす。


「まあ、今すぐ天帝に呼ばれてどうこうって話じゃないから安心して。そこまで行くなら、だいぶ先」


 軽い。

 でも、その“先”がまったく冗談ではないことは分かった。


 穂乃香は函を見た。

 次に、自分の手を見る。

 さっきまでただの練習道具だったものが、急に別の意味を持ち始める。


 名を持つ側。

 その響きはまだ遠い。

 でも、遠いままで終わらないかもしれない、と初めて知った。


 清磬がそこで、静かに口を開く。


「名は重い」


 硬い声だった。


「持つ前は飾りに見える。持てば分かる」


 その言葉には、自分の実感が混じっているようにも聞こえた。


 穂乃香は階段の途中にいる清磬を見上げる。

 戸口の外。

 洞府の外。

 それでもこの地下の話に、ちゃんと届いている。


 萃華が函を台の中央へ戻す。


「だから、函も軽く扱わない」


 こん、と蓋を指先で押さえる。


「これは名そのものじゃないけど、名に近いとこを触る道具だからね」


 穂乃香の喉がひとつ鳴る。


 名に近いところ。

 それは綺麗な響きなのに、どこか少しだけ怖い。


 淵流が、低く細い声を落とした。


「名を知れば、失うことも知る」


 その一言だけで、地下の灯りが少し冷えた気がした。


 穂乃香の肩がわずかに固まる。


 失う。


 その言葉の意味を、まだ自分のこととしては受け取れない。

 でも、どこかで引っかかったまま離れない。


 萃華は、その空気を少しだけ流すみたいに肩をすくめた。


「ま、だからって今から怖がりすぎても仕方ないんだけどさ」


 軽く言ってから、穂乃香を見る。


「ただ、名ってのは“かっこいい肩書き”で終わんないってことは、先に知っといて損ないよ」


 穂乃香は小さく頷く。


「……はい」


 答えながら、胸の奥に残るざらつきをまだうまく言葉にできない。


 函。

 境目。

 名。

 運命。


 それぞれはまだ離れているのに、どこかで一本に繋がっている気がした。


 そして、その繋がりの先に、ふいにひとつの名前が浮かぶ。


 天風立華。


 まだ誰も口にしていないのに、その名前だけが、胸の奥で静かに浮いた。


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