函に触れる
地下の空気は、今日も静かに冷えていた。
階段を下りるたび、家の中の音がひとつずつ遠くなる。
代わりに近づいてくるのは、青白い光球の灯りと、金具のきしむような細い音だった。
ちり、と一度。
それだけで、ここが地上と別の場所なのだと分かる。
穂乃香は最後の段を下りきって、袖の内をそっと確かめた。
符の位置は決まっている。
匣も、いつもの場所に収まっていた。
前みたいに、何度も触って確かめなくてもよくなっている。
それだけで、少しだけ呼吸が深くなる。
萃華はすでに中央の台の前にいた。
首元には淵流。
棚の上では、ペイが丸まりきらない形でだらけている。
「お、来た来た」
萃華が振り返る。
「今日はちょい進めるよ」
軽い声だった。
でも、手元に置かれているものは、いつもと少し違っていた。
台の上にあるのは、符ではない。
匣よりも少し大きくて、薄い。
函だった。
木地は暗く、表面に細い金線が走っている。
飾り気は少ないのに、近くで見ると妙に目を引く。
蓋の合わせ目に、朱の線がごく薄く残っていた。
穂乃香の足が、半歩ぶんだけ止まる。
萃華がそれに気づいて、少し笑う。
「うん、いい反応」
軽い。
けれど視線だけはちゃんと見ていた。
「今日はこっち。さすがにいきなり開けたりはしないけどね」
その一言で、肩の力が少しだけ抜ける。
完全には抜けない。
函の周りだけ、空気が違う。
重い、ではない。
むしろ薄い。
でも、うっかり指を入れると何か持っていかれそうな、妙な静けさがある。
穂乃香は台の前に立った。
萃華が函の横へ指を置く。
「穂乃香、見てて嫌な感じする?」
問いかけはいつも通り軽かった。
でも、こういう時の萃華は待ってくれる。
穂乃香は函を見る。
金線。
蓋。
薄い朱。
何も動いていない。
音もしない。
それなのに、見ていると耳の奥が少しだけ遠くなる。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
答える前に、喉がひとつ鳴った。
「……はい」
「嫌というか……近づきたくない感じがします」
萃華が小さく頷く。
「うん、それで正解」
指先で函の端を軽く叩く。
こん、と乾いた音がした。
その瞬間、函の内側で、何かごく細いものが擦れた気がした。
穂乃香の肩が、ぴくりと固まる。
萃華はすぐに叩くのをやめた。
「まだ開けない。今日は、触るとこまで」
そう言って、台の端に符を一枚置く。
「いつも通り、嫌な感じが来たらそっち。で、来ないなら函に触る。順番はそれだけ」
穂乃香は小さく頷いた。
「……はい」
返事をしてから、右手を符の近くへ置く。
左手はまだ身体の横にある。
萃華がそれを見て、口元を少しだけ上げる。
「いいね。手順入ってきたじゃん」
前ならその言葉だけで少し緊張した。
今は、胸の奥がひとつ鳴るだけで済む。
萃華が半歩下がる。
「じゃ、やってみ」
穂乃香は函を見る。
視線を向けるだけで、空気が少しだけざらつく。
でも、紙片の時ほど分かりやすくはない。
嫌な感じはある。
ただ、それが“今すぐ来る”ものなのか、“そこにある”ものなのかがまだ掴みにくい。
指先が、ほんの少しだけ止まる。
その瞬間、首元から淵流の声が落ちた。
「急ぐな」
低く、静かな声だった。
「逃げる気配ではない。封じられているだけだ」
穂乃香は小さく息を吸う。
封じられている。
その言葉で、函の見え方が少しだけ変わる。
怖いものがそこにあるのではなく、何かを閉じ込めているものがそこにある。
右手は符の近く。
左手を、函へ。
ゆっくり伸ばす。
空気が、わずかに冷える。
指先が蓋の表面に触れた。
木の感触は、思ったよりなめらかだった。
冷たい。
でも、ただの函みたいな冷たさじゃない。
手のひらの奥へ、薄い膜が一枚挟まるような違和感がある。
穂乃香の喉が細くなる。
それでも、手は離さない。
そのまま一拍。
二拍。
函の内側で、また細い音がした。
紙を折るよりも薄い音。
息を潜めた誰かが、向こう側で指を動かしたみたいな気配。
穂乃香の肩が強張る。
右手が符に触れかける。
でも今度は、その前に萃華の声が落ちた。
「うん、そこまででいい」
軽い。
けれど、止める位置は正確だった。
穂乃香はすぐに手を離す。
息を吐くと、肺の奥が少し熱い。
今、自分が止まったのが怖さなのか、警戒なのか、一瞬だけ分からなくなる。
萃華が函を自分の方へ寄せる。
「いいね。ちゃんと“開ける前の嫌さ”を拾えてる」
函の蓋を指先で撫でる。
その仕草は優しいのに、気安くはない。
「これ、符より嘘つかないんだよね。嫌なら嫌ってちゃんと出る」
穂乃香は自分の左手を見る。
まだ、箱の感触が残っていた。
木の冷たさというより、封の向こう側に別の層があったみたいな違和感。
「……今の、中に何かいたんですか」
訊いたあとで、自分の声が少しだけ硬いと気づく。
萃華は答える前に、函をもう一度台の中央へ置いた。
「いる、って言い方も出来るし、そうじゃないとも言えるかな」
相変わらず曖昧な返し方だった。
でも、はぐらかしている感じではない。
「函って、入れ物でもあるけど、境目でもあるからさ」
その一言で、地下の空気が少しだけ静まる。
萃華は続ける。
「閉じ込める。隔てる。眠らせる。ずらす。そういうのをまとめてやるのが函の役目」
それから、穂乃香の手元を見る。
「だから、触った時に“何があるか”より、“どう隔てられてるか”を先に拾えると強い」
穂乃香は小さく頷いた。
全部は分からない。
でも、さっき自分が触ったものが、単なる箱じゃなかったことだけは分かる。
淵流が首元で低く言う。
「見る者は、容れ物の外を見がちだ」
短い声。
「だが、重要なのは境目だ」
その言葉は、昨日までの修行とも繋がっていた。
境目。
見る。
触る前に手順。
穂乃香は符の位置をそっと確かめる。
昨日までは紙片。
今日は函。
少しずつ、触れるものが深くなっている。
その時、階段の上の方から、かすかに音がした。
木が鳴る。
ごく小さな足音。
穂乃香が振り向くより先に、萃華が笑う。
「あ、戻った」
軽い一言。
誰が、と訊く前に、地下へ落ちてくる気配があった。
静かな足取り。
白い衣。
洞府の中へは入らないはずの相手。
穂乃香の肩が、ほんの少しだけ固まる。
戸口の向こう、階段の途中に、清磬が立っていた。




