紙の音
地上へ戻ると、家の中の空気は少しだけやわらかかった。
茶の匂い。
木の匂い。
障子の向こうを流れていく、遠い街の音。
さっきまで地下にいたはずなのに、ここへ上がると急に普通の夜へ戻ったみたいだった。
けれど、鞄の中には符がある。
袖の内には小さな匣もある。
その重さは、歩くたびにかすかに揺れた。
大きくはない。
でも、もう無いものには戻れないと知らせるには十分だった。
萃華はいつもの調子で茶を飲み、淵流は首元で静かに目を閉じ、ペイは勝手な顔で丸くなっている。
恒一も、何もなかったみたいな顔でそこにいる。
ただ、今日の穂乃香には分かってしまう。
何もなかったわけではない。
符を取るまでの半拍。
動きかけて、止まった一歩。
短い一言。
紙の端を握り込みすぎるな、という声。
そういう小さいものばかりが、胸の奥に残っている。
穂乃香は鞄の口をそっと押さえた。
怖さは、まだ消えない。
見えないものに触れる感覚も、嫌な感じも、たぶん明日になればまた来る。
それでも今日は、固まる前に手が動いた。
それは、とても小さなことだった。
小さいのに、昨日までの自分にはなかったものだ。
障子の向こうで、誰かの笑い声が遠く流れていく。
この街は、何も知らない顔で夜を続けている。
穂乃香はその音を聞きながら、静かに息を吸った。
見えてしまったものは、もう消えない。
でも、そのそばにようやく手順が置かれた。
帰る場所があって、降りる階段があって、手の中に触れるものがある。
そのことを胸の奥で確かめるように、穂乃香はゆっくり目を伏せた。
遠い街のざわめきに混じって、
鞄の中で、紙がひとつ、かすかに擦れる音がした気がした。
その音は小さくて、すぐに夜の中へ溶けた。
けれどもう、それを聞き間違いにはできなかった。




