余韻
そのあと、同じことをもう何度か繰り返した。
紙が置かれる。
空気がわずかにざらつく。
符へ手を伸ばす。
毎回うまくいくわけではない。
半拍遅れる時もあれば、符を掴む指先に余計な力が入る時もあった。
それでも、最初の一回目ほど身体が固まることはもうなかった。
萃華は止める時だけ止めて、あとは大きく口を出さない。
淵流も、必要な時に短く一言置くだけだった。
地下の青白い光は変わらない。
けれど、その静けさの中で、自分の手だけが少しずつ慣れていくのが分かる。
最後の一枚が床に落ちて、影も何も現れなかった時、萃華が指先を鳴らした。
「はい、今日はここまで」
軽い声だった。
穂乃香はそこでようやく、肩から力を抜く。
息を吐くと、思っていたより長く空気が出た。
符を持つ指先が少し熱い。
手のひらには、薄い紙の感触がまだ残っている。
萃華が台の上の紙片をまとめながら笑う。
「うん、初日にしては全然いいじゃん」
大げさに褒める言い方ではない。
でも、軽く流すほどでもない。
「穂乃香、最初に止まる場所は分かったし、途中からちゃんと前にずらせてたし。あれなら次も普通に進むよ」
穂乃香は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
声を出したあとで、少しだけ喉が渇く。
地下の空気は静かで、乾いていた。
萃華は台の上の匣を閉じる。
「ま、最初はこれで十分。派手なのはまだいらない」
それから、符束の端を指で整えながら続ける。
「今日は“見えたら触る”が入っただけで収穫だからね。そこ入ってないと、次の段階全部ぐらつくし」
淵流が首元で低く言う。
「基礎が遅れれば、後で裂ける」
「そうそう」
萃華がすぐに頷く。
「だから地味でいいの。地味で崩れない方が、あとで強いから」
その言葉を聞きながら、穂乃香は手の中の符を見た。
薄い紙一枚。
それだけなのに、少し前とは違って見える。
ただ持たされているものじゃなくて、今はちゃんと“使ったもの”になっていた。
その時、恒一が壁際から一歩だけ近づいた。
大きな動きではない。
ただ、手元の符へ視線を落とせるくらいの距離。
穂乃香の胸が、また一拍だけ強く鳴る。
恒一はそのまま、穂乃香の手元を見た。
「握り込みすぎるな」
短い声。
「紙が潰れる」
それだけだった。
でも、穂乃香の指先は思わず少し緩む。
見られていたのだと、今さらみたいに分かる。
「……はい」
返した声が少しだけ揺れる。
恒一はそれ以上何も言わない。
ただ、符の端が整ったのを見て、視線を上げた。
それだけで十分だった。
萃華が横で口元を緩める。
「うんうん、そういう細かいの大事」
いかにも軽い調子なのに、変に茶化しはしない。
「使えるかどうかって、案外そういうとこで変わるし」
ペイが棚の上からするりと降りてきた。
足音もなく穂乃香の足元へ来て、当然みたいに靴先へ身体を寄せる。
温かい。
穂乃香がそっとしゃがむと、ペイは逃げずにそのまま喉を鳴らした。
低くて眠い音。
萃華がそれを見て笑う。
「お、今日も採用されたじゃん」
穂乃香は少しだけ目を瞬く。
「採用……?」
「ペイ基準。嫌な相手には近寄んないから」
さらっと言う。
ペイ本人は、その説明に一切関心がなさそうな顔で前足を折っていた。
穂乃香はそっと背を撫でる。
柔らかい毛並みの向こうに、静かな強さがある。
地下の空気が、さっきまでより少しだけやわらかく感じた。
萃華が台の上を片づけ終える。
「じゃ、今日は上がろっか」
軽い声。
「頭の方が先に疲れるやつだから、こういうの。初日に詰め込んでもあんま意味ないし」
穂乃香は立ち上がる。
符をしまう。
匣の位置も確かめる。
その一つひとつが、来た時より少しだけ自然だった。
階段へ向かう前に、もう一度だけ恒一の方を見る。
恒一はいつもの顔で立っている。
特別なことは何も言わない。
けれど、今日はその何も言わなさの中に、ずっと視線があった。
そのことを思い出しただけで、胸の奥がまた少しだけ落ち着かなくなる。
嬉しい、のかもしれない。
でも、そう決めてしまうと何かが変わりそうで、穂乃香は先に目を逸らした。
萃華が先に階段へ向かう。
「穂乃香、明日も同じ時間で大丈夫?」
振り返りながら訊く声は、どこまでも普通だった。
「……はい。大丈夫です」
「よし。じゃ、次も下で。しばらくは地味にいくから覚悟しといて」
軽い口調に、穂乃香は少しだけ口元をゆるめる。
「……はい」
その返事のあとで、ペイが先に階段を上っていく。
淵流は相変わらず萃華の首元で静かに目を閉じていた。
地下の青白い光が、背中の方へ遠ざかっていく。
上へ戻れば、また木の匂いと茶の香りが待っているはずだ。
家の中の静けさも、障子の向こうの街の音も、昨日と大きくは変わらない。
けれど、穂乃香は階段を一段上がるごとに、胸の内側だけが少しずつ違う場所へ進んでいる気がした。
手の中には、符がある。
今日はそれを使った。
そして、ずっと見ていた視線もあった。
その二つを、まだ同じ言葉にはできないまま、穂乃香は静かに階段を上がっていった。




