小さな成功
台の上に、また三枚の紙が並ぶ。
白い。
薄い。
見た目だけなら、さっきと何も変わらない。
けれど今は、それを見ている自分の方が少しだけ違っていた。
穂乃香は符を右手の届く位置へ置く。
指先で一度だけ位置を確かめる。
見る。
止まる前に触る。
考えるのはあと。
萃華が、それを見て小さく頷く。
「うん。今の置き方でいい」
軽い声。
でも、ちゃんと見ている。
台の向こうで、萃華が一枚目の紙を置く。
二枚目。
三枚目。
最後の一枚が床の術式の線に触れた瞬間、空気がほんの少しだけざらついた。
喉の奥がひりつく。
来る。
その感覚が立ち上がるのと、ほとんど同時だった。
穂乃香の右手が動く。
符へ。
指先が紙の端を捉える。
そこで初めて、床の白い紙がふわりと浮いた。
影が裏側に滲む。
細い脚みたいな黒い線が、紙の縁から這い出しかける。
でも今度は、喉が詰まるより先に、符が掌へ収まっていた。
薄い紙の感触。
その瞬間、床の影がぴたりと止まる。
伸びかけた黒が、術式の線の上で震え、それ以上こちらへ来ない。
紙片は小さく揺れたあと、するりと床へ落ちた。
穂乃香はそこでようやく息を吸う。
胸の奥が熱い。
けれど、さっきみたいな空白はない。
やれた。
そう思った直後、肩の力が少しだけ抜ける。
萃華が指を鳴らす。
ぱち。
床の紙はそれで完全に静まった。
「そうそう」
楽しそうな声だった。
「今の。今のでいい」
穂乃香は符を持ったまま、まだ床を見ていた。
怖くなかったわけじゃない。
嫌な感じも、ちゃんとあった。
それでも、今は止まらなかった。
淵流が首元で低く言う。
「遅れていない」
短い一言。
それだけで十分だった。
穂乃香の指先が、符の端をわずかに押さえる。
その時だった。
「今のは悪くない」
恒一の声が落ちた。
穂乃香の肩が、ほんの少しだけ跳ねる。
顔を上げる。
恒一は壁際に立ったまま、こちらを見ていた。
相変わらず表情は大きく動かない。
でも、さっきより少しだけ視線が近い。
今のは悪くない。
短い。
たったそれだけなのに、胸の奥で何かが一度だけ強く鳴った。
「……はい」
返した声が、思ったより小さい。
自分でも分かるくらい、少しだけ息が上ずっていた。
萃華が横で肩を揺らす。
「ほらね」
笑いながら言う。
「最初から完璧じゃなくていいの。今みたいに、ちゃんと一個ずつ前にずれればそれで十分」
それから、床の紙を拾い上げる。
「穂乃香の場合、見えたあとに考えちゃう癖があるから、まずはそこを飛ばす」
紙を二つ折りにしながら、さらっと続ける。
「見える。符。そこまで先に入れれば、次の手はあとから足せるし」
穂乃香は頷こうとして、少しだけ遅れた。
まだ、胸の奥が落ち着かない。
今の一言のせいだと分かる。
でも、それを認めるみたいで嫌で、穂乃香は先に符を見下ろした。
薄い紙。
軽い。
なのに今は、さっきよりずっと頼りになる。
ペイが棚の上から、興味なさそうに欠伸をする。
淵流は目を閉じたまま、もう何も言わない。
その静けさの中で、萃華だけが少し楽しそうだった。
「じゃ、もう一回やる?」
軽い。
けれど、断られるとは最初から思っていない声だった。
穂乃香は息を整える。
恒一はまだ見ている。
それに気づいた瞬間、また少しだけ胸の奥が騒ぐ。
どうしてこんなふうになるのかは、まだよく分からない。
でも、今はそれより先にやることがある。
穂乃香は符を持ち直した。
「……やります」
今度の声は、さっきより少しだけまっすぐだった。
萃華が笑う。
「うん。いいね」
台の上に、また紙が並べられる。
青白い光の下で、白い面が静かに揺れた。
穂乃香はその前に立つ。
見る。
止まる前に触る。
考えるのはあと。
順番はまだ簡単だ。
でも、その簡単な順番の向こうで、自分の中の何かが少しずつ動いている気がした。




