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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第22章 境目に触れる手
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短い休憩

 萃華が一度、手を止める。


「はい、いったん休憩」


 軽い声と一緒に、台の上の紙片が指先でまとめられた。

 薄い紙の擦れる音が、地下の静かな空気に小さく広がる。


 穂乃香はそこでようやく息を吐いた。


 思っていたより、呼吸が浅くなっていたらしい。

 胸の奥が少しだけ痛い。


 符はまだ手の中にある。

 握りしめていたつもりはないのに、端が少しだけ指に食い込んでいた。


 青白い光球が、棚の金具や匣の縁を淡く照らしている。

 どこかで、ちり、と細い金属音が鳴った。


 萃華が棚の脇から湯呑をひとつ持ってくる。

 地下なのに、いつの間にか茶まで用意されているのが、この家らしかった。


「はい」


 差し出された湯呑を、穂乃香は両手で受け取る。


「……ありがとうございます」


「うん」


 萃華は自分の分も持って、台の端へ腰を預けた。


 茶は熱すぎず、ぬるすぎなかった。

 口をつけると、喉のひりつきが少しだけやわらぐ。


 少し離れた場所で、恒一はまだ同じように立っている。

 動かない。

 口も出さない。

 けれど、さっき一歩動いたことだけが、妙に頭の中に残っていた。


 来ようとした。


 そうした。


 そう思った瞬間、胸の奥がまた少しだけ落ち着かなくなる。


 怖かったから、なのか。

 見ていてくれたから、なのか。

 自分でもまだ、うまく分からない。


 その時、首元から淵流の声が落ちた。


「止まるのが早い」


 低く、揺れのない声だった。


 穂乃香の指先が、湯呑の側面でほんの少しだけ止まる。


 淵流は首に巻き付いたまま、目だけを細めている。

 責めるでもなく、ただ事実を見ていた。


「見えた瞬間に、嫌悪へ寄った」


 短く続く。


「恐怖そのものではない。拒絶だ」


 穂乃香は小さく息を吸った。


 言われてみると、その通りだった。

 怖い、より先に、嫌だ、が来た。


 萃華がそこで頷く。


「うん。そこは私も同じ見立て」


 湯呑を持ったまま、穂乃香を見る。


「見えたから止まったんじゃなくて、“来る”って分かった瞬間に身体が嫌がったんだよね」


 軽い口調のままなのに、妙に外していない。


 穂乃香は視線を落とす。


「……はい」


 自分で言うと、少しだけ喉が詰まる。


 萃華はそれ以上、深追いするみたいには言わない。

 代わりに台の上の紙片を指で軽く叩く。


「まあ、でも手は出てた」


 あっさり言う。


「完全に固まってたら、符に触ろうともしてないから」


 淵流が静かに続ける。


「遅い。だが、捨ててはいない」


 短い声。


 その言い方は硬いのに、切り捨てた響きではなかった。


 穂乃香の指先が、湯呑を持つ手で少しだけ緩む。


 萃華が笑う。


「そういうこと。失敗は失敗なんだけど、方向は合ってる」


 それから、ほんの少しだけ首を傾ける。


「穂乃香、今の自分でどこがまずかったか、分かる?」


 穂乃香はすぐには答えなかった。


 紙。

 影。

 伸びる気配。

 喉が詰まって、符へ手を伸ばそうとして、それでも半拍遅れた。


「……見えたあとで、考えました」


 言ってから、自分で少しだけ眉を寄せる。


「触る前に、“何か分からない”って思ってしまって」


 萃華が頷く。


「うん、そこ」


 指を一本立てる。


「最初は分かろうとしなくていい。見えた、嫌だ、で終わらせないで、その前に手順」


 淵流が首元で低く言う。


「理解は後でよい」


 穂乃香は小さく頷く。


「……はい」


 返事をしたあとで、ようやく恒一の方を見る。


 視線が合う。


 恒一は何も言わない。

 でも、さっきと同じように、静かにこちらを見ていた。


 その目は厳しくない。

 怒ってもいない。


 ただ、見ている。


 それだけなのに、胸の奥が一度だけ強く鳴った。


 萃華がその空気ごと流すみたいに、台を指先でとんとんと叩く。


「はい、じゃあ整理終わり」


 軽い音が地下に落ちる。


「初日で止まる場所分かったなら十分。むしろ、ちゃんと一回失敗しといた方があとで変な慢心しないし」


 そう言って茶をひと口飲む。


「最初から妙に上手くいく方が、あとでこける時ひどいんだよね」


 淵流が目を閉じる。


「慢心は裂け目を作る」


「そうそう」


 萃華がすぐに乗る。


「だから今日のは別にマイナスじゃない。どこで凍るか分かった。それだけで次の手が決まるから」


 穂乃香は湯呑を見下ろした。


 まだ少し、手が熱を持っている。

 でも、さっきみたいな震え方ではない。


 怖さは残っている。

 それでも、まったく何も出来ないわけではなかったのだと、今は少しだけ思える。


 恒一の視線は、まだ静かにこちらへ向いていた。


 それに気づくたび、胸の奥の落ち着かなさがまた少しだけ形を変える。


 前みたいに、遠くの誰かを見ている感じではない。

 ちゃんと、自分の方へ向いている。


 そのことが、少しだけ嬉しくて、少しだけ落ち着かない。


 うまく言葉にはできない。

 したくないのかもしれない。


 萃華が湯呑を置く。


「よし。じゃ、もう一回いこっか」


 軽い声だった。


「次は“嫌だ”の前ね。見えた瞬間に符。考えるのはあと」


 穂乃香は湯呑をそっと置き、符を持ち直す。


 薄い紙。

 軽い。

 けれど、さっきまでより少しだけ頼りなくない。


「……はい」


 今度の返事は、さっきより少し深く出た。


 ペイが棚の上で、退屈そうに欠伸をした。

 淵流は何も言わない。

 でも、さっきより少しだけ目を閉じている。


 それだけで、穂乃香には分かった。


 まだ大丈夫。

 今は、ここで止まれる。


 そう思った瞬間、胸の奥の揺れが、また少しだけ静かに残った。

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