最初の失敗
地下の空気は静かだった。
青白い光球が、棚の縁や床の術式を淡く照らしている。
どこかで小さな金属音が鳴るたび、静けさの輪郭だけが少しずつ濃くなる。
萃華が、台の上に小さな紙片を三枚並べた。
符ではない。
もっと薄くて、白い。
何も書かれていないように見える。
「じゃ、次いくよ」
軽い声だった。
「今度は“変な感じが来たら符に触る”ね。別に当てなくていいから、止まらないことだけ意識しといて」
穂乃香は小さく頷いた。
「……はい」
返事のあとで、喉が少し乾く。
符はすでに右手の届く位置に置いてある。
昨日よりは、手順が近い。
萃華は紙片のうち一枚だけを指先で押し出した。
それが床の術式の上に乗る。
「これはただの紙」
次の一枚を置く。
「これも、ただの紙」
最後の一枚を置いた時だけ、ほんのわずかに空気が揺れた。
穂乃香の肩が、ぴくりと固まる。
萃華はすぐには何も言わない。
ただ台の端に腰を預けて、こちらを見ている。
「で、一枚だけ違う」
軽い調子のまま続ける。
「どれかは言わない。見分けたかったら見分けてもいいし、無理なら“来た”って思った瞬間に符でいい」
穂乃香は床の三枚を見る。
見た目は同じだ。
紙の薄さも、置かれている位置も、大きくは変わらない。
でも。
真ん中の一枚の周りだけ、空気が少しだけざらついている。
見える、というより、
目を向けた瞬間に喉の奥がひりつく。
穂乃香の指先が、無意識に袖を掴みかける。
その前に。
右手を、符へ。
心の中でそう思った瞬間、床の真ん中の紙がふわりと持ち上がった。
音はない。
それなのに、耳の奥にひどく近いところで、誰かが息を吐いた気がした。
ひゅ、と胸が細くなる。
紙は裏返っただけだった。
それだけなのに、白い裏面に薄い影が浮いている。
人の指の跡みたいにも、細い脚みたいにも見える、曖昧な黒。
喉が詰まる。
符。
触る。
そう思ったのに、手が半拍遅れた。
身体が先に止まる。
その瞬間、紙の影が伸びた。
床の上で薄く広がり、術式の線を伝うように這う。
穂乃香の背中が強張る。
「……っ」
息が漏れる。
右手が符へ向かう。
でも遅い。
影は思ったより速い。
紙のはずなのに、床を滑るようにこちらへ来る。
その時。
視界の端で、恒一が動いた。
ほんの一歩。
それだけなのに、空気の向きが変わる。
穂乃香の胸が強く跳ねた。
来る。
そう思った瞬間、首元の淵流が低く言った。
「まだよい」
短い声だった。
恒一の足が止まる。
同時に、萃華の指が鳴った。
ぱち、と乾いた音。
次の瞬間、床を這っていた影がぴたりと止まる。
術式の線の上で、まるで見えない糸に引かれたみたいに震え、それから紙の上へ吸い戻された。
地下の空気が、一拍遅れて静まる。
穂乃香はようやく息を吸った。
胸の奥が痛い。
肩に力が入りすぎていたのか、腕まで少し重い。
萃華が近づいてくる。
慌てた様子はない。
でも歩幅だけは、いつもより少し小さい。
「はい、いったん止めよっか」
声は軽いままだった。
穂乃香は符を握ったまま、うまく顔を上げられない。
「……すみません」
言葉にすると、喉の奥がもっと狭くなる。
萃華はそこで、すぐには励まさなかった。
まず、床の紙を拾い上げる。
「謝るやつじゃないよ、これ。今のは失敗一回目」
紙を指先でひらひらさせる。
「むしろ一回目で止まる場所分かったなら、だいぶ収穫ある方」
その言い方があまりにも普通で、穂乃香は一瞬だけ瞬きをした。
萃華は続ける。
「穂乃香、今どこで止まったか分かる?」
問いかけに、穂乃香は唇を閉じる。
頭の中を、さっきの瞬間がもう一度なぞっていく。
影が伸びた。
喉が詰まった。
符へ手を伸ばそうとした。
でも、その前に身体が固まった。
「……見えた時、です」
小さく言う。
「正確には、その次かな」
萃華は紙を台の上へ戻す。
「“あ、嫌だ”って思ったとこで止まってる」
穂乃香の肩が、ほんの少しだけ揺れる。
その言い方はやわらかい。
でも、外していなかった。
萃華は指を一本立てる。
「見えた、で止まるんじゃなくて、嫌だ、の前に符。そこを先にする」
それから、穂乃香の手元を見る。
「今、ちゃんと取ろうとはしてたじゃん。だから惜しいの」
惜しい。
失敗なのに、その言葉が落ちてきた瞬間、胸の奥が少しだけほどける。
淵流が首元で静かに言う。
「凍る前に動け」
短い。
けれど責める響きではなかった。
穂乃香は小さく頷く。
「……はい」
返事をしたあとで、ようやく恒一の方を見る。
さっきの一歩は、もう元の位置に戻っていた。
何もなかったみたいに静かに立っている。
でも、止まる前に動いたのは確かだった。
穂乃香の指先が、符の端を少しだけ強く押さえる。
どうしてか、喉の乾き方がさっきと違う。
怖さだけじゃない。
胸の内側が少し落ち着かない。
恒一が視線をこちらへ向ける。
「怪我はないか」
短い。
いつもと同じくらい短いのに、今はそれだけで胸の奥が一度だけ強く鳴った。
「……大丈夫です」
返す声が、少しだけ硬い。
恒一はそれ以上何も言わない。
でも、視線はすぐには外れなかった。
萃華がそれを横から見て、口元だけで少し笑う。
けれど何も言わない。
代わりに、台の上の紙をまた一枚ずつ並べ直す。
「よし、じゃあもう一回」
軽い。
でも、今度はさっきよりもはっきり区切るように言う。
「次は“嫌だ”の前ね。見えた瞬間に符。考えるのはあと」
穂乃香は、手の中の符を見た。
薄い。
軽い。
さっきまでより、少しだけ頼りになる気がする。
もう一度だけ、息を吸う。
地下の空気は静かだった。
けれどその静けさの中に、今度はちゃんと順番が見える。
見る。
止まる前に触る。
それから考える。
穂乃香は小さく頷いた。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ深く出た。
萃華が満足そうに笑う。
「うん。じゃ、それでいこ」
ペイが棚の上で、退屈そうに欠伸をした。
淵流は何も言わない。
でも、さっきより少しだけ目を閉じている。
それだけで、穂乃香には分かった。
まだ大丈夫。
今は、ここで止まれる。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥の落ち着かなさが、また少し違う形で残った。




