初日
鞄の中で、薄い紙が擦れる音がした気がした。
帰り道のあいだ、何度も気になった。
歩くたびに本当に鳴っているのか、それとも自分が意識しすぎているだけなのか、よく分からない。
昨日、萃華から渡された符。
袖の内に入れた小さな匣。
それだけで、いつもの通学路の景色まで少し違って見えた。
夕方の街はまだ明るい。
制服のままの生徒たちが、駅へ向かう流れに混じって歩いていく。
車の音。
店先の呼び込み。
どこにでもある放課後のはずなのに、鞄の中にある薄い紙だけが、そこから半歩ずれた場所にいるみたいだった。
萃華の家の前に立った時、ようやく呼吸が少し落ち着く。
戸を開けると、木の匂いと茶の香りが静かに流れてきた。
その奥に、どこか聞き慣れた声がある。
「お、来た来た」
萃華だった。
廊下の奥から、軽い足音が近づいてくる。
「ちゃんと来たじゃん。えらいえらい」
口調は軽い。
でも、視線だけはまっすぐだ。
穂乃香は小さく頭を下げる。
「……お邪魔します」
「うん、どうぞどうぞ。今日から普通に下使うから、そのまま来て」
そう言って踵を返す。
首元には、いつものように淵流が巻き付いていた。
白い鱗が廊下の薄暗い灯りを受けて、かすかに光る。
ペイはその少し先を歩いていた。
人の案内なんてしているつもりはなさそうなのに、気づけば自然に前を行っている。
穂乃香は鞄の肩紐を握り直して、その後ろを追った。
昨日降りた階段を、もう一度下る。
一段ごとに、家の中の空気が遠くなる。
代わりに、地下の静かな密度が近づいてくる。
青白い光球の灯りが、壁に細く伸びていた。
最後の段を降りたところで、穂乃香の足がわずかに止まる。
そこに、恒一がいた。
棚の並ぶ壁際。
いつもの顔で、腕も組まず、ただ静かに立っている。
胸の奥が、一拍だけ強く鳴った。
どうして、とは訊かなかった。
危ないから。初日だから。見鬼持ちだから。
理由はいくらでもつく。
それでも、いると分かった瞬間に肩が少し固くなったのは、自分でもよく分からなかった。
恒一が視線を上げる。
「来たか」
短い一言。
それだけだった。
「……はい」
返した声が、少しだけ硬い。
自分でも分かる。
萃華がその間へ軽く入るように、地下の中央へ歩いていく。
「はい、じゃあ本日一回目」
くるりと振り返る。
「修行、って言っても今日はほんとに初日だから、派手なのなしね」
そう言いながら、低い台の上にいくつかの物を並べていく。
符。
細い匣。
それから、指の先に収まるくらいの小さな鈴に似た宝貝。
穂乃香は昨日の話を思い出す。
巫蠱。
召鬼。
まずは地味でいい。
地味に生き残る方が大事。
萃華が指を二本立てる。
「今日は見る、触る、手を伸ばす。そこまで」
軽い口調のまま言う。
「使う、じゃないんですか」
思わず訊くと、萃華は少し笑った。
「今日はまだそこまで行かないよ。いきなり起こすと、だいたいろくなことになんないし」
それから、台の上の符をひとつ手に取る。
「まず大事なのは、見えた瞬間に固まらないこと」
その言い方だけ、ほんの少しだけ真面目だった。
「穂乃香、見えると先に身体が止まるでしょ」
穂乃香は言い返せずに黙る。
見えてしまった時、最初に来るのは理解じゃない。
息が詰まって、肩が強張って、次に何をするかが遅れる。
それは自分でも分かっていた。
萃華は符を指先で軽く弾く。
「だから、その前に手を動かす練習。頭じゃなくて、手が先」
符が、ぱさりと乾いた音を立てる。
「見えたら、符に触る。持ち替える。開く。そこまでを先に身体へ入れる」
穂乃香は小さく頷いた。
「……はい」
淵流が首元で静かに口を開く。
「判断より先に、手順を入れろ」
低く、揺れのない声だった。
萃華が頷く。
「そういうこと。判断はあと。最初は順番だけ守ればいい」
それから、穂乃香の手元を見た。
「符、出してみ」
穂乃香は鞄へ手を入れる。
昨日入れた場所は覚えている。
でも、いざ取り出そうとすると指先が少しだけもつれた。
紙の端に触れる。
引き抜く。
薄い。
軽い。
なのに、掌に乗ると妙に気配がある。
萃華がそれを見て、小さく笑う。
「うん、まずはそんなもん」
すぐに褒めすぎない声だった。
「じゃ、次。しまう。で、また出す」
「……え」
「地味でしょ?」
楽しそうだった。
「でもこういうのって、地味なとこで詰むからね。変なもん見た瞬間に、符どこだっけってなったら終わるし」
穂乃香は符を見下ろす。
たしかに、派手さは何もない。
ただ紙を出して、しまって、また出すだけ。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
恒一の視線を感じたからだ、と気づくのに少し時間がかかった。
見られている。
怒られているわけじゃない。
試されているわけでもない。
ただ、ちゃんと見ている。
喉が少しだけ乾いた。
穂乃香は視線を落とし、もう一度符をしまう。
今度はさっきより少しだけ早い。
すぐに取り出す。
ぱさり。
紙の音が、地下の静けさに小さく落ちる。
萃華が手を叩いた。
「そうそう。最初はそれでいいの」
軽い。
でも適当に流している感じではない。
「形だけでも先に入れとくと、次が全然違うから」
ペイが棚の上からこちらを見下ろしていた。
目だけ細めて、特に口は出さない。
その代わり、尻尾の先だけを一度ゆっくり揺らす。
穂乃香はもう一度、符をしまって、出す。
今度は少しだけ迷いが減る。
萃華はそこで、台の上の小さな鈴へ指を伸ばした。
「で、こっちが召鬼の入口に使うやつ」
手に取る。
振っても鳴らない。
「今日は鳴らさないよ。まだ順番だけ」
そう言って、鈴を持ったまま穂乃香を見る。
「穂乃香、これ見て、嫌な感じする?」
問いかけられて、穂乃香は鈴を見た。
小さい。
細工も綺麗だ。
でも、見ていると耳の奥が少しだけざわつく。
音が閉じ込められている。
そんな感じがする。
肩が、わずかに強張る。
「……少し」
萃華はすぐに頷いた。
「うん、それでいい」
鈴を台へ戻す。
「今はその“少し”をちゃんと拾う方が先。呼ぶのはあと」
そこへ、恒一の声が落ちる。
「無理はするな」
短かった。
それだけなのに、穂乃香の指先が少しだけ止まる。
萃華がすぐ横から口を挟む。
「分かってるって。今日はまだほんとに触りだけだから」
言いながらも、表情はどこか楽しそうだった。
からかっているというより、全部見えている人の余裕に近い。
恒一はそれ以上何も言わない。
ただ、視線は外さない。
穂乃香はもう一度符を取り出す。
今度は、少しだけ速い。
ぱさり。
その音のあとで、胸の奥にほんの少しだけ別の感覚が残る。
怖い、だけじゃない。
見られているからか。
気にかけられているからか。
うまく言葉にはならない。
それでも、手はさっきより素直に動いた。
萃華が頷く。
「よし。じゃあ初日はそんな感じでいこっか」
指を一本立てる。
「符を手に馴染ませる。違和感を拾う。固まる前に触る」
それからもう一本。
「で、召鬼の方は“嫌な感じ”を見落とさない。まだ呼ばない。今はそこまで」
穂乃香はゆっくり頷く。
「……はい」
淵流が静かに目を閉じる。
「妥当だ」
短い一言。
それを聞いて、恒一の肩からほんの少しだけ力が抜けた気がした。
たぶん、気のせいではない。
その変化に気づいた瞬間、穂乃香の胸の奥がまた一度だけ落ち着かなくなる。
どうしてそうなるのかまでは、まだよく分からない。
分からないまま、穂乃香は手の中の符を見下ろす。
薄い紙。
軽い。
でも、昨日とはもう少しだけ違って見えた。




