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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第22章 境目に触れる手
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初日

 鞄の中で、薄い紙が擦れる音がした気がした。


 帰り道のあいだ、何度も気になった。

 歩くたびに本当に鳴っているのか、それとも自分が意識しすぎているだけなのか、よく分からない。


 昨日、萃華から渡された符。

 袖の内に入れた小さな匣。

 それだけで、いつもの通学路の景色まで少し違って見えた。


 夕方の街はまだ明るい。

 制服のままの生徒たちが、駅へ向かう流れに混じって歩いていく。

 車の音。

 店先の呼び込み。

 どこにでもある放課後のはずなのに、鞄の中にある薄い紙だけが、そこから半歩ずれた場所にいるみたいだった。


 萃華の家の前に立った時、ようやく呼吸が少し落ち着く。


 戸を開けると、木の匂いと茶の香りが静かに流れてきた。

 その奥に、どこか聞き慣れた声がある。


「お、来た来た」


 萃華だった。


 廊下の奥から、軽い足音が近づいてくる。


「ちゃんと来たじゃん。えらいえらい」


 口調は軽い。

 でも、視線だけはまっすぐだ。


 穂乃香は小さく頭を下げる。


「……お邪魔します」


「うん、どうぞどうぞ。今日から普通に下使うから、そのまま来て」


 そう言って踵を返す。

 首元には、いつものように淵流が巻き付いていた。

 白い鱗が廊下の薄暗い灯りを受けて、かすかに光る。


 ペイはその少し先を歩いていた。

 人の案内なんてしているつもりはなさそうなのに、気づけば自然に前を行っている。


 穂乃香は鞄の肩紐を握り直して、その後ろを追った。


 昨日降りた階段を、もう一度下る。


 一段ごとに、家の中の空気が遠くなる。

 代わりに、地下の静かな密度が近づいてくる。

 青白い光球の灯りが、壁に細く伸びていた。


 最後の段を降りたところで、穂乃香の足がわずかに止まる。


 そこに、恒一がいた。


 棚の並ぶ壁際。

 いつもの顔で、腕も組まず、ただ静かに立っている。


 胸の奥が、一拍だけ強く鳴った。


 どうして、とは訊かなかった。

 危ないから。初日だから。見鬼持ちだから。

 理由はいくらでもつく。


 それでも、いると分かった瞬間に肩が少し固くなったのは、自分でもよく分からなかった。


 恒一が視線を上げる。


「来たか」


 短い一言。

 それだけだった。


「……はい」


 返した声が、少しだけ硬い。

 自分でも分かる。


 萃華がその間へ軽く入るように、地下の中央へ歩いていく。


「はい、じゃあ本日一回目」


 くるりと振り返る。


「修行、って言っても今日はほんとに初日だから、派手なのなしね」


 そう言いながら、低い台の上にいくつかの物を並べていく。

 符。

 細い匣。

 それから、指の先に収まるくらいの小さな鈴に似た宝貝。


 穂乃香は昨日の話を思い出す。


 巫蠱。

 召鬼。

 まずは地味でいい。

 地味に生き残る方が大事。


 萃華が指を二本立てる。


「今日は見る、触る、手を伸ばす。そこまで」


 軽い口調のまま言う。


「使う、じゃないんですか」


 思わず訊くと、萃華は少し笑った。


「今日はまだそこまで行かないよ。いきなり起こすと、だいたいろくなことになんないし」


 それから、台の上の符をひとつ手に取る。


「まず大事なのは、見えた瞬間に固まらないこと」


 その言い方だけ、ほんの少しだけ真面目だった。


「穂乃香、見えると先に身体が止まるでしょ」


 穂乃香は言い返せずに黙る。


 見えてしまった時、最初に来るのは理解じゃない。

 息が詰まって、肩が強張って、次に何をするかが遅れる。


 それは自分でも分かっていた。


 萃華は符を指先で軽く弾く。


「だから、その前に手を動かす練習。頭じゃなくて、手が先」


 符が、ぱさりと乾いた音を立てる。


「見えたら、符に触る。持ち替える。開く。そこまでを先に身体へ入れる」


 穂乃香は小さく頷いた。


「……はい」


 淵流が首元で静かに口を開く。


「判断より先に、手順を入れろ」


 低く、揺れのない声だった。


 萃華が頷く。


「そういうこと。判断はあと。最初は順番だけ守ればいい」


 それから、穂乃香の手元を見た。


「符、出してみ」


 穂乃香は鞄へ手を入れる。

 昨日入れた場所は覚えている。

 でも、いざ取り出そうとすると指先が少しだけもつれた。


 紙の端に触れる。

 引き抜く。

 薄い。

 軽い。

 なのに、掌に乗ると妙に気配がある。


 萃華がそれを見て、小さく笑う。


「うん、まずはそんなもん」


 すぐに褒めすぎない声だった。


「じゃ、次。しまう。で、また出す」


「……え」


「地味でしょ?」


 楽しそうだった。


「でもこういうのって、地味なとこで詰むからね。変なもん見た瞬間に、符どこだっけってなったら終わるし」


 穂乃香は符を見下ろす。

 たしかに、派手さは何もない。

 ただ紙を出して、しまって、また出すだけ。


 それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。


 恒一の視線を感じたからだ、と気づくのに少し時間がかかった。


 見られている。


 怒られているわけじゃない。

 試されているわけでもない。

 ただ、ちゃんと見ている。


 喉が少しだけ乾いた。


 穂乃香は視線を落とし、もう一度符をしまう。

 今度はさっきより少しだけ早い。

 すぐに取り出す。


 ぱさり。


 紙の音が、地下の静けさに小さく落ちる。


 萃華が手を叩いた。


「そうそう。最初はそれでいいの」


 軽い。

 でも適当に流している感じではない。


「形だけでも先に入れとくと、次が全然違うから」


 ペイが棚の上からこちらを見下ろしていた。

 目だけ細めて、特に口は出さない。

 その代わり、尻尾の先だけを一度ゆっくり揺らす。


 穂乃香はもう一度、符をしまって、出す。


 今度は少しだけ迷いが減る。


 萃華はそこで、台の上の小さな鈴へ指を伸ばした。


「で、こっちが召鬼の入口に使うやつ」


 手に取る。

 振っても鳴らない。


「今日は鳴らさないよ。まだ順番だけ」


 そう言って、鈴を持ったまま穂乃香を見る。


「穂乃香、これ見て、嫌な感じする?」


 問いかけられて、穂乃香は鈴を見た。


 小さい。

 細工も綺麗だ。

 でも、見ていると耳の奥が少しだけざわつく。


 音が閉じ込められている。

 そんな感じがする。


 肩が、わずかに強張る。


「……少し」


 萃華はすぐに頷いた。


「うん、それでいい」


 鈴を台へ戻す。


「今はその“少し”をちゃんと拾う方が先。呼ぶのはあと」


 そこへ、恒一の声が落ちる。


「無理はするな」


 短かった。


 それだけなのに、穂乃香の指先が少しだけ止まる。


 萃華がすぐ横から口を挟む。


「分かってるって。今日はまだほんとに触りだけだから」


 言いながらも、表情はどこか楽しそうだった。

 からかっているというより、全部見えている人の余裕に近い。


 恒一はそれ以上何も言わない。

 ただ、視線は外さない。


 穂乃香はもう一度符を取り出す。


 今度は、少しだけ速い。


 ぱさり。


 その音のあとで、胸の奥にほんの少しだけ別の感覚が残る。


 怖い、だけじゃない。


 見られているからか。

 気にかけられているからか。

 うまく言葉にはならない。


 それでも、手はさっきより素直に動いた。


 萃華が頷く。


「よし。じゃあ初日はそんな感じでいこっか」


 指を一本立てる。


「符を手に馴染ませる。違和感を拾う。固まる前に触る」


 それからもう一本。


「で、召鬼の方は“嫌な感じ”を見落とさない。まだ呼ばない。今はそこまで」


 穂乃香はゆっくり頷く。


「……はい」


 淵流が静かに目を閉じる。


「妥当だ」


 短い一言。


 それを聞いて、恒一の肩からほんの少しだけ力が抜けた気がした。


 たぶん、気のせいではない。


 その変化に気づいた瞬間、穂乃香の胸の奥がまた一度だけ落ち着かなくなる。


 どうしてそうなるのかまでは、まだよく分からない。


 分からないまま、穂乃香は手の中の符を見下ろす。


 薄い紙。

 軽い。

 でも、昨日とはもう少しだけ違って見えた。

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