門の内側
話が途切れると、部屋の中にはまた茶の匂いが戻ってきた。
萃華はいつもの顔で湯呑を揺らし、清磬は静かに座り、恒一は何も言わずに茶を飲んでいる。
淵流は首元で目を閉じ、ペイは膝の上で勝手に眠っていた。
それだけ見れば、ただの夜だった。
けれど、穂乃香の手の中には符がある。
袖の内には、小さな匣もある。
薄い紙と、小さな箱。
それだけなのに、昨日までの自分とはもう同じではいられないことが分かる。
障子の向こうで、街の音がやわらかく流れていた。
笑い声も、車の音も、夜の明るさも、何も変わらない。
変わったのは、自分の方だ。
穂乃香は符の端をそっと撫でる。
指先に返ってくる気配はまだかすかで、頼りない。
でも、何もないわけではなかった。
萃華が湯呑を置く。
「ま、今日はもう終わりでいいよ。頭の方が先にくたびれるやつだから、こういうの」
軽い声だった。
穂乃香は小さく頷く。
「……はい」
返事をしたあとで、少しだけ息を吐く。
その呼吸は、地下へ降りる前よりも、ほんのわずかだけ深かった。
恒一は湯呑を持ったまま、こちらを見た。
「休め」
短い一言。
それだけで十分だった。
穂乃香はもう一度頷く。
膝の上のペイが、寝ぼけたみたいに尻尾を一度だけ揺らした。
窓の外では、夜がまだ続いている。
見えなかったものは、もう見えてしまった。
知らなかった世界は、もう隣にある。
それでも不思議と、足元が空へ抜ける感じはなかった。
怖さは消えない。
でも、その怖さのすぐそばに、手順が置かれた。
帰る場所と、降りる階段と、手の中の符。
その全部を胸の奥で確かめながら、穂乃香は静かに目を伏せる。
遠くの街のざわめきに混じって、
どこかで小さく、鈴にも似た気配が鳴った気がした。
その音はすぐに消えた。
けれど、もう聞き間違いにはできなかった。




