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報告

 階段を上がるたび、空気が少しずつ軽くなっていった。


 地下の冷えた密度が薄れ、家の中の静かな匂いが戻ってくる。

 木と茶と、夜気の混ざった匂い。


 穂乃香は片手に符の束、もう片方に小さな匣を持ったまま、足元へ視線を落としていた。

 重いわけではない。

 それでも、自分が何かを持っている、という実感だけが妙にはっきりしている。


 廊下へ出ると、清磬はさっきと同じ場所にいた。


 白い衣の裾は崩れず、壁際に静かに立っている。

 待っていた、というより、そこにいることが自然だった。


 穂乃香が足を止めると、清磬の視線が一度だけ手元へ落ちた。


「入れたか」


 短い問いだった。


 穂乃香は一瞬だけ戸惑って、それから小さく頷く。


「……はい」


 清磬はそれ以上何も言わない。

 ただ、手元の符と匣を見たあと、ほんのわずかに目を細める。


「ならよい」


 それだけだった。


 萃華が後ろから肩を揺らす。


「はい、審査終了」


 軽く言って、先に歩き出す。


「清磬も上がっていいよ。こっからは普通に報告だから」


 清磬は静かに頷き、その後に続く。


 部屋へ戻ると、恒一はまだ同じ場所にいた。


 茶はもう半分ほど減っている。

 湯気は薄い。

 それでも、戻ってきた三人を見ても表情は大きく変わらなかった。


 ただ一度、穂乃香の手元を見る。


 符。

 匣。

 それから、萃華の顔。


 それだけで、だいたい分かったらしい。


 萃華が元の場所へ腰を下ろす。

 首元の淵流は音もなく位置を整え、ペイはいつの間にかまた萃華の膝へ戻っていた。


 畳が小さく鳴る。


「で」


 萃華が湯呑を取り上げる。


「穂乃香、預かることにした」


 軽い。

 軽いのに、その一言で部屋の空気が少しだけ変わる。


 穂乃香の肩が、ほんのわずかに固くなる。


 恒一はすぐには返さなかった。

 まず、穂乃香を見る。


 視線は短い。

 それから手元の符に落ちる。

 最後に萃華へ戻る。


「……そうか」


 それだけだった。


 驚きも、反対もない。

 むしろ、予想していたものを確かめたみたいな声だった。


 萃華が湯呑の縁に口をつける。


「うん。まあ、そうなるでしょって話」


 茶をひと口飲んでから、さらっと続ける。


「見鬼あるし、今日あそこまで見ちゃったし。向こうにも見られてるし。今さら何も知らないまま返す方が面倒」


 言い方はいつも通り軽い。

 でも、一つずつがちゃんと理由になっている。


 恒一は黙って聞いている。


 否定しない。

 その代わり、すぐにも頷かない。


 穂乃香はその沈黙の中で、符の端を少しだけ握り直した。


 静かな時間だった。

 長くはないのに、妙に長く感じる。


 その時、淵流が首元から低く言う。


「遅いくらいだ」


 短い一言。


 ペイはそれに何の興味もない顔で、萃華の膝の上で尻尾だけを一度揺らした。


 恒一の視線が、淵流へ向く。

 ほんの少しだけ。


「……お前まで言うのか」


「事実だ」


 あまりにも迷いのない返しに、萃華が肩を揺らす。


「はいはい、そのへんは後でいいから」


 口調は軽い。

 けれど、話を戻す手つきは自然だった。


「とりあえず、最初は下でだけ。符と、眠った蠱。召鬼はまだ入口だけ」


 恒一がそこで初めて、はっきりと手元の符を見る。


「召鬼もやるのか」


「うん、そのうちね。今すぐじゃないけど」


 萃華は湯呑を置く。


 こと、と小さな音。


「見るだけで終わる方が危ないし。だったら、巫蠱で手札増やしつつ、召鬼まで繋げる形の方が早い」


 穂乃香は黙って聞いていた。


 自分のことを話しているのに、どこかでまだ半歩外側にいる感じがする。

 でも、さっきの地下よりは怖くなかった。


 恒一はそれを聞いても、表情を変えない。


「……分かった」


 短い返事。


 その言い方に、穂乃香はわずかに目を上げた。


 分かった。

 それは了承だった。


 萃華がそこで少し笑う。


「でしょ?」


 どこか勝手に話を進めた人の顔なのに、不思議と無理を押しつけた感じは薄い。


「穂乃香もちゃんと了承済みだし」


 恒一の視線が、今度は穂乃香に向く。

 穂乃香の肩が、ほんの少しだけ固まる。


「……お願いします、と言いました」


 自分で言ったはずなのに、言葉にすると改めて重い。

 それでも、声は最後まで途切れなかった。


 恒一はしばらく何も言わなかった。


 ただ、こちらを見ている。


 その視線は厳しいわけじゃない。

 でも、軽く受け流されてもいない。


「そうか」


 やがて、それだけ言う。


 それは反対でも賛成でもなく、

 ちゃんと受け取った時の声だった。


 穂乃香は、少しだけ呼吸を深くする。


 胸の奥にあった固さが、ほんの少しだけほどけた。


 清磬が静かに口を開く。


「位相調整は必要だ」


 声はいつも通り硬い。


「急がせるべきではない」


 恒一はその言葉にだけ、小さく頷く。


「分かっている」


 短いやり取りだった。

 けれど、その短さの中に、もう何か決まっているものがあるようにも見える。


 萃華が頬杖をついた。


「ま、そんな感じで。しばらくはうちで預かる。外で妙なこと始める前に、最低限の線は引いとくよ」


 それから、穂乃香の方を見て少しだけ口元を上げる。


「ね?」


 軽い。

 でも、それで十分だった。


 穂乃香は符と匣を抱え直す。


「……はい」


 返した声は、さっきより少しだけ自然だった。


 恒一はそのまま湯呑を取り上げる。

 もうぬるくなっているはずなのに、気にした様子もない。


「無理はさせるな」


 視線は茶へ落ちたままだ。


 萃華がすぐに返す。


「そこは分かってるよ」


 一拍置いて、少しだけ楽しそうに笑う。


「ちゃんと段階踏むって。私、案外そのへん真面目だし」


 恒一はそれに対して何も言わなかった。

 でも、否定もしない。


 淵流が静かに目を閉じる。


「案外、ではない」


 低い声が落ちる。


 萃華が吹き出す。


「フォローなの、それ?」


 ペイは膝の上でしれっと寝息を立てている。

 その無関心さが、かえって部屋の空気をゆるめた。


 穂乃香はその様子を見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜く。


 ここにいる人たちは、みんな人とは違う。

 それはもう分かっている。


 でも、違うまま、ちゃんと日常の中に座っている。


 茶の匂い。

 畳の感触。

 柔らかい灯り。

 膝で丸くなる猫。


 その真ん中に、さっき地下でもらった符がある。


 穂乃香は小さく息を吸った。


 今夜のうちに全部が変わるわけじゃない。

 でも、もう昨日までと同じ場所にも戻らない。


 その境目に、自分はちゃんと座っている。


 障子の向こうで、遠くの街がまだ笑っていた。

 その音は、ここまで来る頃には、もうずいぶんやわらかくなっている。

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