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指導方針

 地下の灯りが、青白く棚をなぞっていた。


 光球の揺れに合わせて、匣の角や金具の縁がかすかに明滅する。

 どこかで、細い金属が触れ合うような音がひとつ鳴った。


 ちり、と短い音。


 その残響が消える前に、萃華が棚の前で指を二本立てた。


「で、穂乃香に教えるのは、たぶん二本立て」


 軽い言い方だった。

 けれど、もう決めてある話を整理して出している声だった。


 穂乃香は符を持ったまま、わずかに指先へ力を入れる。


「……二本」


「うん。巫蠱と、召鬼」


 その二つが並んだ瞬間、地下の空気が少しだけ変わった気がした。


 知っている言葉ではない。

 でも、どちらもさっきまで見てきたものと、どこかで繋がっている感じがある。


 萃華は棚から細い匣を一つ抜き、今度は開けずに掌の上で転がした。


「まず巫蠱ね。こっちは私の側」


 匣の中で、何か小さなものが動いた気がした。

 音はしない。

 けれど、箱の中に静かな生き物の気配がある。


 穂乃香の肩が、ほんの少しだけ強張る。


 萃華はその反応を見て、少し笑った。


「まあ、いきなりこの顔になるのは解る」


 笑いながらも、言葉は崩れない。


「でも、巫蠱って別に“毒い虫をけしかけます”だけじゃないからね。そこ、偏見持たれやすいんだけど」


 匣を指先で軽く叩く。


「繋ぐ。潜らせる。探る。残す。返す。そういう細かい仕事が本体」


 穂乃香は小さく瞬きをした。


 思っていたよりずっと静かな言葉だった。

 攻撃ではなく、触れて、探って、残していく感じ。


 萃華が続ける。


「穂乃香、見鬼あるでしょ」


 軽い。

 けれど視線だけはまっすぐだ。


「見えるって、裏返すと“境目が分かる”ってことなんだよ。何が違和感で、どこに変なもんがいて、どの線が人の側で、どの線から向こうなのか」


 指が、穂乃香の持つ符へ向く。


「その感覚あるなら、巫蠱と相性いい。雑に殴るより、ずっと向いてる」


 殴る、という言葉があまりにもさらっと出て、穂乃香は少しだけ息を呑んだ。

 萃華はそれに気づいて、口元を緩める。


「あ、別に殴れないって意味じゃないよ? ただ、そっち延ばすより先に、使えるもんがもうあるって話」


 その言い方は不思議と嫌じゃなかった。

 決めつけているのに、押しつけられている感じが薄い。


 淵流が首元で静かに口を開く。


「見る者は、先に境を学ぶべきだ」


 低い声が、地下の空気に落ちる。


 穂乃香は淵流を見る。

 白蛇の瞳は細いまま動かない。


 萃華が頷く。


「そういうこと。いきなり力持たせても、境目分かってないと普通に危ないし」


 それから、指をもう一本立てた。


「で、もう一個。召鬼」


 その言葉が出た瞬間、穂乃香の脳裏に、白い衣と磬の音がよぎる。


 路地に響いた澄んだ音。

 影から立ち上がった鬼。

 硬く、少しだけ荒れていたあの響き。


 喉がかすかに鳴る。


 萃華は、その反応を見て少しだけ目を細めた。


「こっちは清磬の側ね」


 さらっと言う。

 けれど、その言い方にはちゃんと線引きがあった。


「だから今すぐ私が全部教えるってより、入口だけこっちで整えて、細かいところはあとで清磬にも噛んでもらう感じかな」


 穂乃香は一度、戸のあった方角を思い出す。

 地下へ入る手前で止まった白い姿。


 洞府が違うから、ここから先には入らなかった。


 その距離感のまま、教わることになるのだとしたら、少し不思議だった。


「……私に、召鬼もですか」


 訊き返すと、萃華はあっさり頷いた。


「うん。穂乃香、見えるだけじゃなくて“引っかかる”から」


 その言葉に、穂乃香の指先が少し冷える。


 引っかかる。


 確かに、見えるだけではなかった。

 視線の重さも、悪夢の気配も、あの夜の残滓も、全部“触れてきた”。


 萃華は棚から、今度は鈴に似た小さな宝貝を取り上げた。

 揺らしても鳴らない。

 けれど見ているだけで、音がその内側に閉じ込められている気がする。


「召鬼って、要するに“向こうのものをこっちに引っ張る”技術なんだけど」


 鈴を掌に包む。


「雑にやると、普通に事故る」


 軽い声で言う内容ではない。


 穂乃香の肩がわずかに固まる。


 萃華はすぐに続ける。


「でも、穂乃香は最初から向こうを感じちゃう側なんだよね。だったら、感じるだけで終わるより、“呼ぶ・返す・切る”の手順を覚えた方がいい」


 包んでいた手を開く。


 鈴は静かなままだ。


「呼ぶだけ覚えても駄目。返せないと面倒だし、切れないともっと面倒」


 そこだけ、少しだけ声が真面目になる。


「だから巫蠱と召鬼を分けない。両方やる」


 穂乃香は黙って聞いていた。


 理屈はまだ全部飲み込めない。

 でも、言っていることの形は分かる。


 見える。

 感じる。

 なら、触れる手段と、戻す手段がいる。


 たぶん、それはそうなのだ。


 萃華が鈴を棚へ戻す。


「ざっくり言うとね、巫蠱で“仕込む・探る・残す”、召鬼で“呼ぶ・借りる・返す”。この二本」


 それから、穂乃香の手の中の符を指さす。


「で、最初はまず、こっち」


 符。


「……巫蠱からですか」


「うん、そっちのが事故りにくいから」


 即答だった。


 あまりにも即答で、穂乃香は少しだけ肩の力が抜ける。


 萃華は笑う。


「いや、もちろん事故る時は事故るけど」


 そこで、ほんの少し首を傾ける。


「でも召鬼の事故って、もうちょい取り返しつかない寄りなんだよね」


 穂乃香は符を見下ろした。

 薄い紙一枚。

 さっきより、少しだけ重く感じる。


「じゃあ……清磬さんの方は」


 問いかける前に、喉が一度だけ詰まる。


 それでも最後まで言う。


「後から、ですか」


 萃華は頷いた。


「そう。今はまだ、位相がちょっと違うし」


 その言葉に、穂乃香は小さく眉を寄せる。

 どこかで聞いた表現だった。


 萃華はそれに気づいて、少し笑う。


「清磬もたぶん同じこと思ってるよ。“資質はあるけど、今はまだ噛み合ってない”って」


 言い方が妙に自然で、穂乃香は目を上げた。


「……分かるんですか」


「長いからね、あのへんは」


 軽く返して、萃華は棚にもたれる。


「あと、清磬はあれでちゃんと見てるし」


 あれで、という言い方は少し雑だった。

 でも、軽く扱っている感じではない。


 淵流が静かに目を細める。


「焦らせる必要はない」


「そうそう」


 萃華がすぐに乗る。


「急いで召鬼まで突っ込むより、まずは手札増やして、生き残る癖つける方が先」


 そこで、少しだけ言葉を切る。


「あと、呼び方は恒一さんのままでいいよ」


 穂乃香は一瞬、話が飛んだ気がして瞬きをした。


「え……?」


 萃華は気にせず続ける。


「外で妙なズレ方すると普通に浮くし、普段からそれで慣れときな。咄嗟の時って、そういうの意外と隠せないからさ」


 あまりにも自然な実務話の温度で言われて、穂乃香は返事が半拍遅れる。


「……はい」


 頷いたあとで、その言葉の意味が少しずつ沈んでくる。


 呼び方を変えない。

 日常のままでいる。

 そうやって、普通の側に繋いだまま進めるということだ。


 萃華はその返事に満足したみたいに笑って、今度はもう少し軽い声に戻る。


「ま、そんな感じ。穂乃香にやらせるのは、最初から“仙人っぽい何か”じゃなくて、“ちゃんと生き残るための手順”ね」


 穂乃香の肩から、少しだけ力が抜ける。


 怖さが消えたわけではない。

 でも、いきなり知らない世界の真ん中へ放り込まれる感じは、少しだけ薄くなった。


 萃華が棚から細い紙箱を二つ取り出す。

 一つは今まで見ていた符束に近いもの。

 もう一つは、ごく小さな、掌に隠れるくらいの匣だった。


「で、初回セットはこのへん」


 軽い声で言う。

 まるで買い物袋の中身でも見せるみたいに。


「符。あと、眠ってる蠱。起こすのはまだ先」


 それから、紙箱を卓代わりの低い台へ置く。


「召鬼の方は、まず名前と手順だけ覚える。実際に触るのはもうちょい後」


 穂乃香はその二つを見た。


 薄い符。

 小さな匣。


 どちらもまだ静かだ。

 でも、その静けさの下に何かが潜んでいる。


「……思っていたより」


 言いかけて、少しだけ唇が止まる。


「地味、です」


 言ってしまってから、失礼だったかもしれないと気づく。

 肩が小さく固まる。


 けれど萃華は、そこで声を上げて笑った。


「でしょ?」


 楽しそうだった。


「最初から派手なことさせるわけないじゃん。そういうのは、派手に死ぬルートだから」


 軽い。

 でも正しい。


 穂乃香は小さく息を吐く。

 少しだけ、笑いそうになる。


 萃華が指先で二つの箱をとんとんと叩く。


「地味でいいんだよ、最初は。地味に生き残るのが一番大事」


 その一言が、地下の青白い光の中で妙に真っ直ぐ残った。


 穂乃香は、ゆっくり頷く。


「……はい」


 今度の返事は、さっきより少しだけ自然に出た。


 淵流が首元で静かに目を閉じる。


「悪くない」


 短い声。

 それが、今のところは十分な評価なのだと分かった。


 地下の空気は、変わらず静かだった。

 けれど、さっきまでより少しだけ、自分の立つ位置が定まった気がした。


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