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地下工房

 萃華が立ち上がる。


 畳が小さく鳴った。

 軽い動きなのに、その音だけが妙にはっきり聞こえる。


「じゃ、行こっか」


 言って、萃華はそのまま部屋を出る。

 淵流は首に巻き付いたまま動かない。

 ペイは穂乃香の膝から降りると、何事もない顔で先に廊下へ出た。


 穂乃香は一拍遅れて立ち上がる。

 足の裏にまだ少しだけ力が入らない。


 廊下の空気は、部屋より少し冷えていた。

 灯りは弱い。

 家の奥へ進むほど、街のざわめきが遠くなっていく。


 恒一はついて来ない。

 部屋に残ったままだ。


 穂乃香が一度だけ振り返ると、恒一は視線だけでこちらを見た。

 何も言わない。

 止めもしない。


 そのまま萃華の背を追う。


 家の奥。

 突き当たり。

 古い板戸の前で、萃華が足を止めた。


 清磬もそこまでは来ていた。

 けれど、戸の前で止まる。


 白い衣の裾が、灯りの薄い床に静かに落ちていた。


 穂乃香は小さく瞬きをする。


 清磬は、それ以上前へ出ない。


 萃華が肩越しに振り返る。


「あ、清磬はここまでね」


 軽く言う。

 けれど理由を茶化す感じではなかった。


「洞府違うと、こういうとこは勝手に入んない方がいいから」


 清磬は短く頷く。


「当然だ」


 声はいつも通り硬い。

 それだけ言って、壁際へ半歩下がる。


 穂乃香は戸と清磬を見比べる。

 何となく分かる。


 ここから先は、萃華の領域だ。


 萃華が戸に指を当てた。


 こつん。


 小さく叩く。

 それだけで、足元の空気がほんの少し揺れた。


 穂乃香の肩が、わずかに固まる。


 戸が、音もなく開く。


 下へ続く階段があった。


 暗い。

 けれど真っ暗ではない。


 奥の方で、淡い光が脈打っている。

 蝋燭でも電灯でもない、術の光だとすぐに分かった。


 萃華が先に降りる。


「まあ、仕事場っていうか」


 階段を下りながら、気楽な声で続ける。


「趣味と実益が合体した結果、みたいな場所」


 その言い方に、穂乃香は少しだけ口元を緩める。

 でも足は慎重になる。


 一段。

 また一段。


 下るたび、空気が変わる。


 地上の家の空気とは違う。

 湿っているわけじゃない。

 むしろ澄んでいるのに、どこか密度が濃い。


 耳の奥で、小さな金属音が鳴った気がした。


 ちり、と。

 鈴とも違う。

 どこかで細い宝貝同士が触れ合ったみたいな音。


 階段を下り切った瞬間、穂乃香は足を止めた。


 広い。


 想像していたよりずっと広かった。


 地下室というより、洞の中をそのまま削って整えたみたいな空間。

 天井は高く、壁際には棚が並んでいる。

 木箱。

 細長い(はこ)

 巻かれた符。

 封じられた刃。

 半透明の珠。

 金属の骨組みに固定された、用途の分からない器具。


 灯りは天井から下がっていた。

 電球ではない。

 小さな光球が幾つも浮かび、青白い光を落としている。


 その光が宝貝の表面を撫でるたび、壁に薄い反射が揺れる。


 空気は静かだった。

 けれど死んではいない。


 術式が生きている。


 床には細い線が幾重にも走っていた。

 墨と朱。

 金属粉。

 それらが絡み合って、部屋全体を巨大な陣にしている。


 穂乃香は息を浅くした。


 見える。


 ただの線じゃない。

 線の上を、かすかな気が流れている。


 萃華が振り返る。


「ね? 見た方が早いでしょ」


 軽く笑う。


 でも、その目は少しだけ嬉しそうだった。

 自分の好きなものを見せる時の顔だ、と穂乃香にも分かる。


 ペイは勝手に棚の上へ飛び乗っていた。

 そこから地下全体を見下ろしている。

 淵流は首元に巻き付いたまま、ただ静かに目を細めていた。


「宝貝の研究、調整、修理。あと迎撃」


 萃華が指をひとつ立てる。


「この家、表から見るとただの家だけど、いざって時はちゃんと反すから」


 その一言の直後だった。


 壁の一角で、符が一枚だけふっと明るくなる。

 穂乃香の視線がそちらへ吸われる。


 何かが反応した、と思った瞬間にはもう光は消えていた。


 萃華が肩をすくめる。


「今のは気にしなくていいよ。見慣れてないのが入ると、式が先に反応することあるから」


 気にしなくていい、という言い方は軽い。

 でも、迎撃用の術式だと分かる。


 穂乃香はごく小さく息を呑んだ。


 この場所は、守るための場所でもある。


 ただ集めて置いてあるだけじゃない。


 萃華は棚の間を歩く。

 その後ろをついていくと、宝貝の数が増えていくのが分かる。


 形も、気配も、全部違う。


 刃物。

 鈴。

 鏡。

 札。

 玉。

 腕輪。

 針。


 ひとつひとつが、意味を持ってそこにある。


 穂乃香はそこで、足を止めた。


 部屋の奥。

 他とは少しだけ空気の違う一角がある。


 光が届かないわけじゃない。

 でも、そこだけ妙に薄暗く見える。


 棚ではない。

 小さな台座がひとつ。

 その上に、複数の符と細い金属線で囲われたものが置かれていた。


 宝貝、だと思う。


 けれど完成品には見えない。


 輪のようにも、砕けた器の一部のようにも見える。

 表面には細かい文字が刻まれ、その周囲だけ術式の線が二重に走っていた。


 他の宝貝とは違う。


 攻めるためでも、守るためでもなく、

 何かをほどくための形に見えた。


 穂乃香の視線が、そこに吸い寄せられる。


 胸の奥が、わずかに冷えた。


 その瞬間。


 萃華が、ごく自然にその前へ半歩入った。


「あー、そこはまだ見なくていいやつ」


 言い方は軽い。

 けれど、その一拍だけは笑っていなかった。


 穂乃香の肩が、ほんのわずかに固まる。


 萃華はすぐにいつもの調子へ戻る。


「今はこっちな」


 くるりと向きを変える。

 棚の反対側へ、穂乃香の意識ごと連れていくみたいに。


 そこには、掌に収まるくらいの小さな箱が並んでいた。

 箱というより、薄い匣。


 萃華がそのうち一つを手に取る。


「これは試作品。開けると虫出る」


「虫……?」


「うん、虫」


 軽い。

 でも、まるで普通の文房具の説明みたいな言い方だった。


「普通の人にはただの箱だけど、気を流すと中の(むし)が起きる。護符にも使えるし、呪い返しにも使えるし、まあ用途は広い」


 穂乃香は目を瞬く。


 箱を見つめる。

 小さい。

 こんなものの中に“何か”が入っているとは、見た目からは分からない。


 萃華が笑う。


「で、穂乃香にやらせるなら、たぶんこのへんからかなーって感じ」


 その言葉に、穂乃香の指先が少しだけ止まる。


「私に……?」


「そ」


 萃華は箱を棚へ戻す。


「穂乃香、見鬼あるじゃん」


 軽い。

 でも、今度の言葉は逃がさない。


「見えるだけで終わるのって、一番危ないんだよ。向こうにも見つかるし、こっちは何も持ってないし」


 穂乃香は口を閉じる。


 反論できない。

 何がどう危ないのか、まだ全部は分からない。

 でも、今日見たもののあとで「関係ない」とは言えなかった。


 萃華は別の棚から、薄い紙束を引き出した。

 符だ。


「だから、せめて手札は持っときなっていう話」


 そう言って、穂乃香の方へ一枚差し出す。


 受け取る前に、穂乃香の手がほんの一瞬止まる。


 自分がこれに触れていいのか。

 そんな迷いが、指先をわずかに固くした。


 萃華は急かさない。


「大丈夫。いきなり爆ぜたりしないから」


 少し笑う。


「たぶん」


 穂乃香は思わず顔を上げた。


 萃華は普通に笑っている。

 冗談なのか本気なのか分からない。


 その曖昧さに、逆に少しだけ力が抜けた。


 穂乃香は符を受け取る。


 薄い。

 でも冷たくはない。

 かすかに脈打つみたいな気配だけがある。


 萃華が頷く。


「うん。拒まれてないな」


 その一言が妙に真面目で、穂乃香はまた符を見る。


 萃華は地下をぐるりと見回す。


「ま、そんなわけで」


 軽く両手を広げる。


「ここがうちの裏側。表で茶飲んでるだけじゃないってのは、なんとなく分かったでしょ」


 穂乃香は地下の棚、術式、迎撃陣、光球、そして部屋の奥の“まだ見なくていいやつ”のあった場所を順に見た。


 分かった、とはまだ言い切れない。


 でも、ひとつだけ確かなことがある。


 ここは、知ってしまった人間をそのまま帰すための場所ではない。


 守るためでもあり、戦うためでもあり、

 そして――何かを備えるための場所だ。


 穂乃香は符を持ったまま、ゆっくり頷いた。


「……はい」


 萃華はその返事に満足したみたいに笑った。


「よし。じゃ、次はもうちょい分かりやすい話をしよっか」


 その言い方は軽い。

 でも、もう後戻りの話ではないことだけは分かった。

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