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封神台

 湯呑の縁から、細い湯気が立っていた。


 それが障子の隙間から入る夜気に触れて、ふっと崩れる。

 部屋の中は静かだった。


 膝の上のペイは、さっきから勝手に落ち着いている。

 小さな身体なのに、重みは妙にはっきりしていた。

 喉の奥で、かすかな音が鳴る。


 ごろ、とも、ごろごろ喉を鳴らしているとも違う。

 低くて、眠い音。


 その音を聞いていると、少しだけ呼吸が整う。


 穂乃香は湯呑を置いた。

 畳の上に置くわけにもいかず、卓の端へそっと戻す。


 指先が、ほんの少しだけ止まる。


 それから顔を上げた。


「……萃華さん」


 呼んだ声は、自分で思ったより掠れていた。


 萃華が頬杖を解く。


「ん?」


 軽い返事。

 でも、視線はちゃんとこっちに向く。


 穂乃香は一度だけ唇を閉じた。

 喉の奥が、まだ少し乾いている。


「封神台って……何なんですか」


 言い終わったあとで、部屋が少し静かになる。


 恒一は何も言わない。

 清磬も動かない。


 首元の淵流だけが、萃華の肩の上で目を開けた。


 萃華はすぐには答えなかった。


 湯呑に手を伸ばし、口をつける。

 茶をひと口だけ飲んで、それから小さく息をついた。


「あー……まあ、そこ聞くよな」


 口調は軽い。

 でも、ごまかす気もなさそうだった。


 ほむらは膝の上のペイに、無意識に指を沈めた。

 柔らかい毛が、指先に沈む。


 萃華が湯呑を置く。


 こと、と小さな音がした。


「ざっくり言うと、封神台ってのは――終わる側の仙が引かれる場所」


 穂乃香の肩が、わずかに強張る。


 終わる。


 その言葉は短いのに、重かった。


 萃華は続ける。


「別に、悪いことしたやつだけが行く場所ってわけじゃないよ。そこは勘違いしやすいんだけどさ」


 そこで一度、萃華の指が卓を軽く叩いた。


「仙って、いつまでもそのままでいられるわけじゃないんだよね。壊れるやつもいるし、役目を終えるやつもいるし、天命の流れで上に行くやつも、逆にここで終わるやつもいる」


 さらっと言っている。

 でも、言葉の一つひとつが軽くない。


 穂乃香は視線を落とした。


 膝の上のペイは動かない。

 ただ、尻尾の先だけを一度、ゆっくり揺らした。


「じゃあ……」


 声を出す前に、喉がひとつ鳴る。


「邪仙も、そこに行くんですか」


 萃華が片眉を上げる。


「本来はね」


 短い返事だった。


「妖魔堕ちして、理を踏み外して、どうしようもないとこまで行った仙は、最終的にはそっちに寄る。だからあいつも、本来ならそうだった」


 あいつ。

 朱烈のことだと、すぐに分かる。


 穂乃香の指先に、また少し力が入る。


 火の色。

 胸の奥から噴き上がった炎。

 焼けながら笑っていた顔。


 思い出した瞬間、呼吸が浅くなった。


 その時。


 膝の上のペイが、何も言わずに前足を穂乃香の手の上へ乗せた。


 ぬくもりが、少しだけ意識を引き戻す。


 萃華の目がそれを見て、ほんの一瞬だけ細くなった。

 けれど何も言わない。


「……魂焼却は、逃げなんだよ」


 萃華の声が少しだけ低くなる。


「封神台に行くくらいなら、自分で魂ごと燃やして消える。あれはそういう手段」


 穂乃香は顔を上げた。


「消える……」


「うん。綺麗さっぱり」


 軽く言う。

 でも、その軽さがかえって冷たかった。


「輪廻にも乗りにくくなるし、痕も残りにくい。だから、仙から見りゃかなり最悪寄り」


 首元の淵流が、そこで低く口を開いた。


「臆病者の選ぶ手だ」


 短い一言。


 その声は静かだった。

 でも、断定の仕方がまるで揺れない。


 萃華が肩をすくめる。


「ま、そういう見方もある」


 そう言ってから、少しだけ指先で湯呑を回した。


「ただ、怖いのは分かるよ。封神台って、あっちから来る感じあるから」


 穂乃香の眉がわずかに動く。


「あっちから……?」


「そ。自分で行くっていうより、条件が揃うと向こうに引かれる」


 そこで初めて、恒一がほんの少しだけ目を伏せた。

 それはすぐ元に戻ったけれど、穂乃香は見逃さなかった。


 萃華は続ける。


「壊れた仙。終わるべき仙。あるいは、もうこのままここに置いとくと歪むって判断されたやつ。そういうのが、あっちに寄る」


 穂乃香の喉がまた少し詰まる。


 引かれる。

 終わるべき仙。

 歪む。


 分からない単語はない。

 なのに、並ぶと急に遠くなる。


「じゃあ……」


 言いかけて、唇が止まる。


 その間に、萃華がほむらを見た。

 急かさない。

 待つ。


 穂乃香は小さく息を吸った。


「恒一さんが……」


 声が、そこで一度だけ揺れる。


「“理解できる”って言ったのは……」


 最後まで言わなくても、意味は伝わったらしい。


 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。


 萃華はすぐに答えなかった。

 代わりに、淵流の白い頭を指先で軽く撫でる。


「あれはね」


 ようやく口を開く。


「仙やってると、分かっちゃう時があるんだよ」


 言い方は軽い。

 でも、目はまっすぐだった。


「逃げたい気持ちが、じゃなくて。そこまで追い込まれたら、そういう手を選ぶやつが出るってことが」


 穂乃香は黙って聞いていた。


 恒一は何も言わない。

 否定もしない。


 その沈黙の方が、説明より重い気がした。


 萃華が続ける。


「ただし、理解できるのと、肯定するのは別」


 そこで、ほんの少しだけ笑う。


「恒一はそこ、ちゃんと分けてるよ。こいつ変なとこ真面目だから」


 言いながらも、声の置き方だけは柔らかかった。


 穂乃香は視線を落とす。


 膝の上のペイは、もう完全に寝る体勢に入っていた。

 この話の重さなんてどうでもいい顔で、勝手に丸くなっている。


 その無遠慮さが、少しだけ救いだった。


「……清磬さんは」


 今度はそちらを見る。


 清磬は、最初からほとんど動いていない。

 白い衣の折り目まで整っている。


「“封神もまた天命”って……」


 清磬の睫毛が、わずかに動く。


 返事の前に、ほんの半拍だけ間があく。


「教えとしては正しい」


 声は硬い。

 いつも通りの、儀礼的な音だった。


「逃れるものではない。少なくとも、本来は」


 それだけ言って、清磬は黙る。


 穂乃香には、その先が続かない理由までは分からなかった。

 でも、分からないことの方が今は多い。


 萃華が苦笑する。


「まあ、そこは清磬らしい答えだな」


 それから、穂乃香の方へ軽く顎を向ける。


「で。ここからが大事なんだけど」


 穂乃香の肩が、またほんの少しだけ固くなる。


 萃華は、その変化を見ても言葉を止めない。


「見鬼ってさ。見えるだけじゃ済まないんだよ」


 部屋が静かになる。


 外のざわめきが、障子の向こうで一度だけ揺れた。


「見えるってことは、向こうにも見つかるってことだから」


 その言葉が落ちた瞬間、穂乃香の指先が冷えた。


 萃華は、そこでようやく少しだけ笑う。


「……だから、放っとけないわけ」


 軽く言う。

 でも、それが軽い話ではないことは分かった。


 穂乃香は何も言えなかった。


 膝の上のペイだけが、小さく寝息を立て始めている。

 そのぬくもりを確かめるみたいに、穂乃香はそっと背を撫でた。


 淵流が静かに目を開ける。


「知った以上、戻れん」


 短い一言だった。


 穂乃香は顔を上げる。


 白蛇の目は、まっすぐだった。

 冷たいわけじゃない。

 ただ、そこに曖昧さがない。


 戻れない。


 その言葉は、不思議と脅しには聞こえなかった。


 ただ、事実だった。


 萃華がそこで、ふっと肩を抜く。


「ま、いきなり全部飲み込めって話でもないし」


 卓に肘をついて、少しだけ前へ乗り出す。


「だから次、もうちょい分かりやすいもん見せるよ」


 穂乃香が瞬きをする。


「……分かりやすいもの?」


 萃華の口元が上がる。


「うちの地下」


 軽い調子のまま、言う。


「仕事場っていうか、宝貝の研究場っていうか、迎撃用の仕込み場っていうか。まあ、見た方が早い」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。


 さっきまで“知る”話をしていたのに、今度は“入る”話になる。

 その感覚の違いが、穂乃香の胸を静かに叩く。


 湯呑の中の茶は、もうすっかり冷めていた。

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