帰還
萃華の家は、夜になると音がやわらかい。
障子の向こうでは、まだ街のざわめきが続いているはずなのに、この部屋まで届く頃には、笑い声も車の音も角が取れて、湯気みたいに薄くなっていた。
茶の香りが静かに残っている。
穂乃香は湯呑を両手で持ったまま、まだ少しだけ肩に力を入れていた。
指先の熱はある。
でも、胸の奥に沈んだ冷たさまでは溶けきらない。
向かいでは萃華が頬杖をついている。
いつもの軽い顔をしているのに、目だけはちゃんと起きていた。
恒一はその横で黙って座っていた。
あの戦いのあとだというのに、やっぱりいつもと変わらない顔をしている。
その変わらなさが、今は少しだけ遠かった。
清磬は部屋の端にいる。
白い衣の裾は乱れていない。
戦闘の名残なんて最初から持ち込まなかったみたいに、静かに座っていた。
萃華が湯呑を揺らす。
「で、まあ」
茶の表面に灯りがひとつ揺れた。
「今日はだいぶ濃かったなー、って感じなんだけど」
軽い。
軽いのに、声の置き方だけが妙に正確だった。
穂乃香は小さく息を吸う。
喉がまだ少しひりつく。
「……はい」
それだけ返す。
言葉を継ごうとして、少しだけ唇が止まる。
封神台。魂焼却。鎮魂。
訊きたいことはいくつもあった。
でも、うまく順番にならない。
その時だった。
ふ、と空気が動く。
窓は閉まっている。
なのに、部屋の温度がほんの少しだけ変わった。
穂乃香の肩が、わずかに固まる。
次の瞬間、廊下の向こうで小さな音がした。
かり、
と、爪が木を引っかくような音。
それから、障子の隙間が少しだけ開く。
三毛猫が入ってきた。
足音はほとんどしない。
けれど迷いはなかった。
勝手知ったる家の中を当然の顔で歩いてきて、そのまま萃華の膝へ飛び乗る。
萃華が片手で受け止めた。
「お、帰ったか。ペイ」
猫は返事の代わりみたいに、短く「にゃ」と鳴いた。
そのまま丸くなるかと思ったのに、すぐに顔を上げる。
金色の目が、穂乃香を見た。
見られた、と思うより先に、背中がわずかに粟立った。
ただの猫ではない。
それはすぐに分かった。
毛並みの下に、もっと大きなものがいる。
輪郭の向こう側に、もう一つ別の重さがある。
穂乃香の指先が湯呑に少し力を入れる。
熱い。
その一瞬遅れて、もう一つの白い影が入ってきた。
細い。
長い。
月の光を切って伸ばしたみたいな白蛇だった。
音もなく畳を滑る。
迷わず机の脚を登り、そのまま萃華の袖を伝って肩へ上がる。
そして、首元へするりと巻き付いた。
あまりにも自然で、そこが最初から定位置だったみたいだった。
萃華が少し首を傾ける。
「お、帰ったか。遅かったじゃん、淵流」
白蛇が静かに頭を上げる。
「終わった」
声は低く、落ち着いていた。
男とも女ともつかない。
けれど、妙に耳に残る声だった。
その瞬間。
穂乃香の視界が、ほんのわずかに揺れる。
白蛇の細い輪郭の奥に、別の形が重なった。
巨大だった。
天井を突き抜けるような白い影。
うねる胴。
夜そのものを巻き上げたみたいな長い躯。
龍。
そう呼ぶしかない姿が、一瞬だけ見えて、すぐに消える。
穂乃香の喉が詰まる。
湯呑の縁に、指がほんの少し鳴った。
萃華がその音に気づいたみたいに笑う。
「あー、そっか。初見か」
軽い調子のまま、白蛇の頭を指で撫でる。
「こっち、淵流。うちの巫獣。で、こっちがペイ」
それから膝の上の猫の頭をぽんと叩く。
ペイは紹介なんてどうでもいいみたいに、萃華の膝から飛び降りた。
とん、と畳に降りる。
そのまま、まっすぐ穂乃香の方へ歩いてきて、足元で一度止まる。
見上げる。
次の瞬間、当然みたいに穂乃香の膝へ飛び乗った。
「え……」
声が漏れる。
温かい。
小さい身体のはずなのに、妙に重みがある。
ペイは勝手に落ち着いた顔で前足を折った。
萃華が笑う。
「お、珍しいじゃん。気に入った?」
ペイは返事をしない。
猫らしく、それ以上の説明義務を一切感じていない顔をしている。
淵流がその様子を見て、わずかに頭を上げた。
「雑だな」
言われた瞬間、恒一が初めて少しだけ視線を動かした。
「お前が言うのか」
淵流は白い目を細める。
「事実だ」
萃華がすぐに肩を揺らす。
「はいはい、帰って早々そのへんにしなって」
その声音だけで、部屋の空気が少し緩んだ。
穂乃香は膝の上の重みを確かめるように、そっと手を置く。
ペイは逃げない。
むしろ少しだけ身体を預けてきた。
そのぬくもりが、さっきまでの冷たさをほんの少しだけ押し返す。
淵流は首元から動かず、静かに目を閉じかけた。
それでも完全には眠らない。
首に巻き付いたまま、守る位置を崩さない。
萃華が湯呑を置く。
小さな音が、静かな部屋に落ちる。
「で、穂乃香」
また軽い声だった。
「落ち着いたなら、そろそろ続きいこっか」
続き。
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。
穂乃香は膝の上のペイを見て、それから萃華を見る。
白蛇はもう何も言わない。
でも、いるだけでこの家の深さを示していた。
ここはやっぱり、普通の家じゃない。
そう改めて分かったところで、穂乃香は小さく頷いた。
「……はい」




