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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第20章 残火に響く鎮魂
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静寂と鎮魂

 しばらく、誰も動かなかった。


 火は消えている。

 それなのに、熱だけが残っていた。


 焼けた壁。

 黒く曇った窓。

 歪んだ手すり。

 さっきまで炎が噛みついていた場所が、そのままの形で夜の中に取り残されている。


 音も、変だった。


 表通りのざわめきは遠くで続いている。

 笑い声も、車の音も、消えたわけじゃない。

 なのにこの路地だけ、何かが一度ぜんぶ燃え尽きた後みたいに静かだった。


 穂乃香は浅く息を吸う。


 焦げた匂いが、まだ濃い。

 鼻の奥に引っかかる、乾いた熱の匂い。

 喉がひりつく。


 恒一は剣を下ろしたまま、しばらく朱烈が消えた場所を見ていた。

 風蕗の刃はもうない。

 手の中には、何も残っていない。


 その横顔には何も浮かんでいなかった。


 怒りも。

 安堵も。

 後悔も。


 何も読めない。


 清磬が、そこで初めて一歩だけ動いた。


 すっと前へ出る。


 足音はしない。

 でも空気が変わる。


 その動きに、恒一は何も言わない。

 止めもしない。


 穂乃香は息を止めた。


 清磬は、もう分かっていたみたいだった。


 焼け跡ではない。

 残火でもない。

 もっと、その奥。


 目には見えない何かを、最初から見ているみたいに。


 喉がかすかに動く。


「……待て」


 声は小さい。

 それでも、その一言で路地の空気がさらに静まる。


 恒一がわずかに視線を動かす。

 ほむらは何も分からないまま、言葉もなく立ち尽くした。


 清磬の目は、朱烈が消えた場所ではなく、その少し向こうを見ている。


「まだ残っている」


 その言い方は、戦闘の時と同じではなかった。

 怒りでも、警戒でもない。


 ただ、確かめた事実を告げるだけの声。


 仕事みたいに。


 それが少しだけ怖かった。


 清磬が目を閉じる。


 その瞬間。


 路地の空気に、淡い輪郭が浮かび上がった。


 磬。


 半透明の、薄く光る磬。

 今度は戦闘の時みたいに数で押し包む感じではない。


 一つ。

 また一つ。

 静かに並ぶ。


 ネオンの届かない暗がりの中で、その輪郭だけが水面みたいに揺れていた。


 清磬の唇が、わずかに動く。


 低い詠。

 言葉そのものは聞き取れない。

 でも音の流れだけが、まっすぐ胸の奥に落ちてくる。


 ——チン。


 最初の一音が鳴った。


 澄んでいた。


 あまりに澄んでいて、さっきまでここで火と鬼がぶつかり合っていたことが、急に遠い出来事みたいに思える。


 音が広がる。


 焼けた空気を、波みたいに押していく。


 焦げた匂いが、ほんの少しだけ薄れる。


 穂乃香はそこで、見た。


 何もないはずの場所に、淡い影が浮かぶ。


 人の形に見えた。

 でも、顔は分からない。

 輪郭も、煙みたいに曖昧だ。


 一つだけじゃない。


 二つ。

 三つ。


 焼け跡の空気に溶けるみたいに、いくつもの薄い影が揺れている。


 肩がかすかに跳ねる。

 息が止まる。


 幽霊だ、とも違う。

 もっと弱くて、壊れかけた何か。


 清磬の磬が、もう一度鳴る。


 ——チン。


 その音に触れた瞬間、影がかすかに揺れた。


 穂乃香の耳の奥に、何かが触れる。


 声ではない。

 言葉でもない。


 でも、感情だけがひどく近くに来た。


 安心。

 解放。

 ほどけるみたいな、温度のない安堵。


 それが一瞬だけ胸の奥を撫でていく。


 穂乃香は小さく息を呑んだ。


 ありがとう、に近いのかもしれないと思った。

 でも、本当にそうだったのかは分からない。


 ただ、その気配は次の音で静かに薄れた。


 ——チン。


 影が溶ける。


 散るのではなく、帰っていくみたいに。


 焼けた空気に混じっていた重さが、少しずつ遠ざかっていく。


 穂乃香は指先に力を入れた。


 祓ったんじゃない。


 送ったんだ。


 その意味が、理屈ではなく分かった。


 清磬は最後の一音を鳴らし、静かに目を開ける。


「……これでよい」


 誰に言うでもない声。


 勝った後の宣言でもなければ、慰めでもない。

 終わった仕事を確かめるみたいな口調だった。


 その時、清磬の視線がわずかに動く。


 振り返らないまま、穂乃香の方へ落ちる。


「……見えたか」


 肩が小さく震えた。

 問い返そうとして、声が出ない。


 喉が乾いた音を立てる。


「……はい」


 やっとそれだけ言う。


 清磬は何も続けない。

 それで十分だと言うみたいに、また前を向いた。


 恒一がそこでようやく歩き出す。


 焼けた路地を抜ける風が、遅れて頬を撫でた。

 熱が、少しだけほどける。


 穂乃香はその場に立ったまま、まだ動けなかった。


 邪仙は、人を焼く。

 魂すら焼いて消える。


 仙人は、それを送る。


 同じ“人ではない側”にいるのに、まるで違う。


 でも。


 その違いを理解したところで、安心はできなかった。


 怖い。


 その気持ちは消えない。

 けれどそれだけじゃない。


 人と違う尺度で、生きている。

 人には見えないものを見て、触れて、処理している。


 その世界の輪郭を、今夜はじめて見せられた気がした。


 表通りのネオンの色が、濡れた路面に滲んでいる。

 遠くで、また笑い声がした。


 この街は、もう何事もなかったみたいに夜を続ける。


 その中で。


 磬の音だけが、穂乃香の耳の奥に長く残っていた。

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