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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第20章 残火に響く鎮魂
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敗勢、そして魂焼却

 磬の音が、途切れない。


 澄んだ響きのはずなのに、今は鋭かった。

 夜の路地に幾重にも重なって、逃げ道そのものを削っていくみたいに鳴り続ける。


 鬼が走る。


 壁を蹴り、階段を這い、火の隙間を縫って朱烈へ迫る。

 焼かれても、散っても、そのたびに次の影が起き上がる。


 さっきまで余裕を浮かべていた朱烈の顔から、笑みが少しずつ薄れていた。


 肩が揺れる。

 短い舌打ちが混じる。


 火を振るうたび、鬼は焼ける。

 けれど、焼き切る前に次が噛みつく。


 右から一体。


 左から一体。


 頭上から、さらにもう一体。


 朱烈が腕を振り抜く。

 火が弧を描き、まとめて三体を払う。


 だがその瞬間、足元の影が膨らんだ。


 鬼が一体、朱烈の足首へ絡みつく。


「っ、鬱陶しい」


 肩が跳ねる。


 その一瞬の乱れを、清磬は見逃さなかった。


——チン。


 音がひとつ、深く鳴る。

 いつもより低い。


 澄んでいるのに、どこか硬い。


 清磬自身の中で、まだ名前のついていない苛立ちが、そのまま音に交じっているようだった。


 穂乃香の耳の奥がじんと震えた。


 次の瞬間、非常階段の影が大きく持ち上がる。

 今までで一番輪郭の濃い鬼が、朱烈の背後に立っていた。


 人の形に近い。

 けれど顔はなく、ただ黒い穴みたいな輪郭だけがそこにある。


 朱烈が振り返る。


 その前に、鬼の腕が伸びた。


 喉元を掴む。


 同時に、左右から別の鬼が肩と腕を押さえ込んだ。


 火が爆ぜる。

 朱烈の周囲で、赤い熱が乱暴に膨らむ。


 でも、今度は散らない。


 清磬の音が、火を上から押さえていた。

 さっきまでより強い。

 けれど整いきってはいない。


 制御の中に、わずかな苛立ちが混じっている。


 ——チン。

 ——チン。


 一音ごとに、鬼の拘束が深くなる。


 朱烈の足が、半歩だけ地面を滑る。


 押されている。


 穂乃香の喉が鳴った。

 乾いた音だけが、自分にだけ聞こえた気がした。


 朱烈の目が、そこで初めて恒一を見た。


 笑わない。

 怒鳴らない。

 ただ、そこに立ったまま見ている恒一を。


「……お前」


 低く、吐く。


 息が混じる。


「そうかよ」


 口元が歪む。

 笑っているのに、さっきまでみたいな軽さはない。


 肩がわずかに震えた。


「いつまで縛られてるつもりだ?」


 その言葉の意味を、穂乃香はうまく掴めない。


 でも。


 空気が変わったことだけは分かった。


 炎の熱とは別の何かが、路地に落ちる。


 恒一は動かない。


 剣を下げたまま、朱烈を見ている。


 返事もしない。


 その沈黙が、妙に長く感じられた。


 朱烈が喉の奥で笑う。


「封神だの、天命だの」


 言葉の途中で、肩が小さく揺れる。


「くだらねえ」


 そう吐いた瞬間だった。


 穂乃香の目には、見えた。


 朱烈の胸の奥。

 火とは少し違う、もっと濃い赤。


 そこだけが、妙に深く沈んでいる。


 嫌な感じがする。


 言葉にするより早く、背筋が冷えた。


 朱烈が笑う。


「好きに生きりゃいいんだよ」


 ほんの一瞬、唇の端が吊り上がる。


「力があるならな」


 次の瞬間。


 胸の奥の赤が、爆ぜた。


 朱烈の身体の外側じゃない。

 内側からだった。


 炎が噴き上がる。


 穂乃香は思わず目を見開く。


 火が皮膚を焼いているんじゃない。

 もっと深いところ——見えないはずの“何か”が、燃えている。


 「——っ」


 息が詰まる。


 鬼が一斉に距離を取る。

 清磬の磬が、そこで一度だけ鳴りを止めた。


 朱烈はまだ立っていた。


 燃えながら、笑っている。


封神台(ほうしんだい)なんざ……」


 声が掠れる。

 けれど、その目だけは妙にはっきりしていた。


「ごめんだ」


 炎が、さらに膨らむ。


 穂乃香には見えた。


 人の形をした何かが、火の中でほどけていく。

 身体ではない。

 もっと内側のもの。


 魂が、焼けている。


 次の瞬間、炎がしぼむ。


 音が消えた。


 熱だけが一拍遅れて路地に残る。


 そこには、もう何もなかった。


 灰も。

 焼け跡も。

 人の輪郭すら。


 ただ、焦げた匂いだけが濃く残っている。


 穂乃香は動けなかった。


 喉が乾いて、呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が浅い。

 何を見たのか、言葉が追いつかない。


 その沈黙の中で、恒一がようやく口を開いた。


「……魂焼却(こんしょうきゃく)か」


 声は低い。

 驚きも、怒りも、ほとんど混ざっていない。


 ほんのわずかに、間が空く。


「封神台よりは、ましか」


 その言葉に、穂乃香の肩が小さく震えた。


 封神台。


 何のことかは分からない。

 でも、その響きは言葉そのものより重かった。


 恒一はなおも朱烈がいた場所を見たまま、静かに言う。


「……理解できる」


 意味が、分からなかった。


 理解できる?


 魂を焼いて消えることが?


 穂乃香の指先が、わずかに冷えた。


 その時、清磬が口を開く。

 けれど視線は恒一には向いていない。

 残火の残る路地の奥、さっきまで朱烈がいた場所を見たままだ。


「……逃げたな」


 声は低い。

 もう戦闘中の硬さは薄れている。


 けれど、まだほんの少しだけ、収まりきらないざらつきが残っていた。


封神(ほうしん)もまた天命(てんめい)


 一瞬だけ、磬の残光が揺れる。


「それを焼くとは……愚かだ」


 夜のざわめきが、少しずつ戻ってくる。

 遠くの車の音。

 誰かの笑い声。

 表通りの世界が、何事もなかったように息を続けている。


 その中で、穂乃香だけが取り残された気がした。


 胸の奥で、冷たいものが沈んでいく。


 強いから怖いんじゃない。


 違う。


 価値観が、人と違う。


 その事実が、今さらみたいに足元を崩す。


 仙人は——


 人とは違う。

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