面で焼く火
「……面倒くせぇ」
その一言のあと、路地の空気が一段重くなった。
表通りのざわめきはまだ遠くで続いている。
笑い声も、車の音も、消えたわけじゃない。
なのに、この細い路地の中だけ、熱が壁を作ったみたいに外の音を鈍らせている。
朱烈が、片手を軽く振る。
今までみたいに火を弾く動きじゃなかった。
もっと雑で、もっと乱暴な手つき。
その掌の上に、赤い符が浮かぶ。
一枚。
二枚。
三枚。
息をする間に、増える。
燃えながら、形を保っている符。
赤い光がふわりと持ち上がり、暗い路地をじわじわ染めていく。
穂乃香の喉が詰まった。
嫌な感じがする。
火弾とは違う。
狙いをつけて撃つ種類の術じゃない。
もっと広い。
もっと雑で、もっと逃げ場がない。
清磬の前に浮かぶ磬が、低く揺れた。
——チン。
鳴った音は澄んでいた。
けれど、今度はそれだけでは足りないと分かる。
清磬が一歩、前へ出る。
肩の線が静かに沈む。
白い袖口の内側で、指先だけがわずかに強張る。
次の瞬間、影が一斉に起きた。
路地の壁。
足元の黒ずみ。
非常階段の下。
暗がりのある場所すべてから、鬼が立ち上がる。
四体。
いや、もっとだ。
さっきまでより輪郭の濃い鬼が、音に押し出されるように前へ出る。
それを見て、朱烈が笑う。
「そういうの、嫌いじゃねえけどよ」
唇の端だけで笑う。
目は少しも笑っていない。
「数で来るなら、まとめて焼けろ」
符が散る。
投げた、というより捨てたみたいな乱暴さだった。
けれど、その軌道を見た瞬間、穂乃香の背中が冷えた。
鬼を狙っていない。
壁。
床。
頭上。
路地そのものへ落とすつもりだ。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
次の瞬間。
爆ぜた。
音より先に熱が来る。
空気が膨らむ。
赤い火が、面になって広がる。
火弾じゃない。
炎の壁でもない。
路地全体が、一斉に燃え上がった。
穂乃香は反射的に腕で顔を庇う。
熱風が肌を叩く。
目の前の空気が歪み、頬に当たる風が痛い。
鬼が燃える。
一体はその場で輪郭を失った。
もう一体は半身を焼かれ、影の形のまま崩れる。
清磬の磬が一斉に鳴った。
——チン。
——チン。
——チン。
音が重なる。
音に押されて、炎の広がりがわずかに揺れる。
鬼が残った火の隙間へ潜り込もうとする。
だが、熱が強すぎる。
燃えているのは符だけじゃない。
路地の空気そのものが火に噛みつかれていた。
非常階段の手すりが、キィ……と細く鳴く。
排水溝から蒸気が噴く。
頭上の窓ガラスに、細いひびが走る。
街ごと巻き込む火だ。
穂乃香は息を浅くした。
肺の中まで熱くなる気がする。
その前で、清磬はまだ引かない。
白い道袍の裾が熱で揺れ、袖口が焦げた風に煽られても、目だけは真っ直ぐ朱烈を見ている。
もう一度、磬が鳴る。
鬼が立つ。
でも、その新しい影が完全に形を取る前に、朱烈の符がまた落ちた。
爆炎。
今度は真正面から。
鬼が焼ける。
磬の音が一瞬だけ乱れる。
穂乃香はその時、見た。
清磬の肩が、ほんのわずかに下がるのを。
胸の奥が冷えた。
押されている。
強い弱いの話じゃない。
相性とか、向き不向きとか、そういうものが目の前で形になっている気がした。
鬼は立つ。
音も消えていない。
それでも、火の方が雑に広い。
朱烈が口元を歪める。
「そうだろ」
炎の向こうで笑う。
「面で焼けば、面倒は消える」
その言葉に合わせるみたいに、符がさらに増えた。
頭上。
左右。
逃げ道の先にまで。
穂乃香の指先が震えた。
路地ごと燃やすつもりだ。
清磬が、そこで半歩だけ踏み込む。
浮かぶ磬の数が一気に増えた。
五つ。
七つ。
もっと。
淡い光が、焼けた壁や歪んだ金属に反射する。
その光景は、綺麗だった。
綺麗なのに、怖い。
——チン。
音が、さっきまでより深くなる。
その瞬間だけ、炎の広がりがわずかに押し戻された。
風もないのに、熱が割れる。
穂乃香は息を止めた。
清磬の術は、本当はもっと大きいのだと理屈抜きで分かった。
けれど、次の瞬間。
清磬の視線が横に流れる。
窓。
看板。
電線。
人の生活がまだ残っている街の方。
押し返しかけた音が、そこで止まる。
浮かんでいた磬の光が、一つ消える。
続いてもう一つ。
熱が、すぐに押し返してくる。
穂乃香の喉がひりついた。
これ以上やれば、こっちも街を壊す。
その一瞬のためらいを、朱烈は見逃さなかった。
目が細くなる。
「そういう顔だ」
熱の向こうで笑う。
「街ごと燃やされんのが嫌なんだろ?」
符が落ちる。
今度の爆炎は、さっきより深い。
鬼が弾ける。
磬の響きが乱れる。
清磬の前の空間が、ついに火に呑まれた。
穂乃香の喉の奥で息が詰まる。
次の瞬間。
風が走った。
熱の中を、まっすぐ切り裂くような冷たい流れ。
それまで後ろで影響だけを逸らしていた恒一が、前へ出ていた。
指先の光が、夜気の中で小さく瞬く。
風が集まり、形を持つ。
一本の剣。
炎の赤の中で、その刃だけが静かだった。




