非常階段の男
「こんな時間に散歩か?」
反射的に肩が跳ねる。
穂乃香は息を止めたまま、顔を上げた。
非常階段の途中に、男が一人いた。
三十前後。
高そうな服を着ているのに、着崩し方が雑だ。
夜気の中にいるはずなのに、その周りだけ熱で空気が揺れて見える。
顔より先に、喉の奥が引きつった。
——熱い。
恒一は何も言わない。
半歩前に出たまま、男を見上げる。
清磬も動かない。
ただ、その横顔の線だけがわずかに鋭くなった。
男の視線が三人の上をゆっくりと滑る。
最初に恒一。
次に清磬。
そして最後に、自分のところで止まった。
穂乃香の指先がわずかに縮こまる。
息が浅くなる。
「へえ……」
男の口元が、粘つくような歪みを見せた。
その視線は、ただ彼女を見ているのではない。
まるで、その場から動けない獲物の服を一枚ずつ剥ぎ取っていくような、卑猥な熱を帯びていた。
「悪くねぇ女じゃねえか」
その言葉に、胸の奥が一拍遅れて冷えた。
値踏みするような視線が、顔から肩へ、そして無防備な胸元へとねっとりと落ちていく。
物理的な距離はまだあるはずなのに、その視線が触れる場所から、じりじりと肌を焼かれるような不快感が這い上がってきた。
気持ちが悪い、と思った時にはもう遅かった。
「焼く前に、たっぷり遊んどくか?」
男が、獲物を追い詰める愉悦を隠そうともせずに一歩踏み出す。
足の裏がじわりと冷える。
声が出ない。
喉の奥が引き攣れて、助けを呼ぶ叫びさえも凍りついてしまった。
その瞬間、視界の真ん中に影が入った。
恒一だった。
何の気負いもなく、ただ当然みたいに間へ立つ。
男の視線と穂乃香の間に、まっすぐ線を引くみたいに。
恒一は振り返らない。
ほんの短く、穂乃香にだけ言う。
「……下がれ」
喉が詰まる。
穂乃香は一瞬だけ固まり、それから小さく頷いた。
「……はい」
後ろへ下がる。
一歩。
もう一歩。
その足音さえ大きく聞こえるくらい、路地の空気は張っていた。
非常階段の上で、男が面白そうに目を細める。
「おいおい」
鉄の手すりから身体を離す。
「そういう顔すんのかよ」
階段を下りる靴底が、甲高い金属音を鳴らした。
カン、カン、と軽い音が焼けた壁に跳ねる。
地面へ降りた瞬間、熱が少しだけ強くなる。
男は笑っていた。
けれど、その笑みの奥には、最初から壊すつもりで触ってくるような雑さがあった。
穂乃香は無意識に、さっきすれ違った女たちの顔を思い出す。
目を逸らしていた。
急いでいた。
この路地を長く見ないようにしていた。
あれは、分かっていたのだ。
この男が、危ないと。
「ほら」
男が両手を少し開く。
「下がらせただけじゃ終わんねぇだろ」
その指先に、火が灯った。
小さい。
最初は、蝋燭の先の炎みたいな大きさだった。
でも、その火を見た瞬間、穂乃香の喉がひどく乾く。
ただの火じゃないと、身体の方が先に理解していた。
熱が広がる。
朱烈が、笑う。
「遊ぼうぜ」
その声が落ちた瞬間、清磬が一歩前に出た。
空気が変わる。
静かなまま、ぴんと張る。
穂乃香は息を止めた。
表通りのざわめきが、もう完全に別の世界の音に思える。
次の瞬間、清磬の周囲に淡い輪郭が浮かび始めた。
同時に、路地裏に満ちていた朱烈の嫌な熱気が、彼女の周りだけスッと吸い込まれて消えていく。
まるで、冷たい水の中に墨を落としたような、静かな侵食。




