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地仙譚~百年を生きる仙人は現代で怪異を祓う~  作者: taka
第20章 残火に響く鎮魂
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非常階段の男

「こんな時間に散歩か?」


 反射的に肩が跳ねる。

 穂乃香は息を止めたまま、顔を上げた。


 非常階段の途中に、男が一人いた。


 三十前後。

 高そうな服を着ているのに、着崩し方が雑だ。

 夜気の中にいるはずなのに、その周りだけ熱で空気が揺れて見える。


 顔より先に、喉の奥が引きつった。


 ——熱い。


 恒一は何も言わない。

 半歩前に出たまま、男を見上げる。


 清磬も動かない。

 ただ、その横顔の線だけがわずかに鋭くなった。


 男の視線が三人の上をゆっくりと滑る。


 最初に恒一。

 次に清磬。

 そして最後に、自分のところで止まった。


 穂乃香の指先がわずかに縮こまる。


 息が浅くなる。


「へえ……」


 男の口元が、粘つくような歪みを見せた。


 その視線は、ただ彼女を見ているのではない。


 まるで、その場から動けない獲物の服を一枚ずつ剥ぎ取っていくような、卑猥な熱を帯びていた。


「悪くねぇ女じゃねえか」


 その言葉に、胸の奥が一拍遅れて冷えた。

 値踏みするような視線が、顔から肩へ、そして無防備な胸元へとねっとりと落ちていく。

 物理的な距離はまだあるはずなのに、その視線が触れる場所から、じりじりと肌を焼かれるような不快感が這い上がってきた。


 気持ちが悪い、と思った時にはもう遅かった。


「焼く前に、たっぷり遊んどくか?」


 男が、獲物を追い詰める愉悦を隠そうともせずに一歩踏み出す。


 足の裏がじわりと冷える。

 声が出ない。

 喉の奥が引き攣れて、助けを呼ぶ叫びさえも凍りついてしまった。


 その瞬間、視界の真ん中に影が入った。


 恒一だった。


 何の気負いもなく、ただ当然みたいに間へ立つ。

 男の視線と穂乃香の間に、まっすぐ線を引くみたいに。


 恒一は振り返らない。


 ほんの短く、穂乃香にだけ言う。


「……下がれ」


 喉が詰まる。

 穂乃香は一瞬だけ固まり、それから小さく頷いた。


「……はい」


 後ろへ下がる。

 一歩。

 もう一歩。


 その足音さえ大きく聞こえるくらい、路地の空気は張っていた。


 非常階段の上で、男が面白そうに目を細める。


「おいおい」


 鉄の手すりから身体を離す。


「そういう顔すんのかよ」


 階段を下りる靴底が、甲高い金属音を鳴らした。

 カン、カン、と軽い音が焼けた壁に跳ねる。


 地面へ降りた瞬間、熱が少しだけ強くなる。


 男は笑っていた。

 けれど、その笑みの奥には、最初から壊すつもりで触ってくるような雑さがあった。


 穂乃香は無意識に、さっきすれ違った女たちの顔を思い出す。


 目を逸らしていた。

 急いでいた。

 この路地を長く見ないようにしていた。


 あれは、分かっていたのだ。


 この男が、危ないと。


「ほら」


 男が両手を少し開く。


「下がらせただけじゃ終わんねぇだろ」


 その指先に、火が灯った。


 小さい。

 最初は、蝋燭の先の炎みたいな大きさだった。


 でも、その火を見た瞬間、穂乃香の喉がひどく乾く。

 ただの火じゃないと、身体の方が先に理解していた。


 熱が広がる。


 朱烈が、笑う。


「遊ぼうぜ」


 その声が落ちた瞬間、清磬が一歩前に出た。


 空気が変わる。


 静かなまま、ぴんと張る。


 穂乃香は息を止めた。

 表通りのざわめきが、もう完全に別の世界の音に思える。


 次の瞬間、清磬の周囲に淡い輪郭が浮かび始めた。


 同時に、路地裏に満ちていた朱烈の嫌な熱気が、彼女の周りだけスッと吸い込まれて消えていく。

 まるで、冷たい水の中に墨を落としたような、静かな侵食。


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