夜の街を移る
――穂乃香視点――
外へ出た瞬間、熱が戻ってきた。
家の中で静まっていた呼吸が、夜気に触れた途端に少しだけ浅くなる。
アスファルトの照り返しは昼ほど強くないはずなのに、足元から上ってくる熱はまだ残っていた。
通りの向こうでは、ネオンの色が湿った空気の中で滲んでいる。
赤、青、紫。
色だけが浮かび、文字は読めない。
表通りから流れてくる音楽が、店の戸の開閉に合わせて途切れ途切れに聞こえた。
笑い声。
車の音。
誰かの呼び込み。
けれど恒一は、その真ん中を歩かなかった。
通りの端。
建物の影。
看板の光が届ききらない場所だけを選んで進んでいく。
清磬も同じだった。
白い道袍の裾が夜風に揺れる。
目立つはずなのに、不思議なくらい目立たない。
人の流れが自然にそこだけを避けていくみたいに、三人の周りには半歩ぶんの空白があった。
穂乃香はその後ろを追う。
最初の十歩で、もう速いと思った。
次の角を曲がる頃には、息が少し上がっている。
足を止めるわけにはいかない。
呼ばれたのは自分だ。
必要だから連れてこられている。
そう思うと、「待ってください」の一言が喉に引っかかったまま出てこない。
恒一の歩幅は一定だった。
速いのに、急いでいるようには見えない。
清磬もぴたりと並ぶ。
その二人に少し遅れ、穂乃香は小走りで距離を詰める。
胸が苦しい。
けれど、その苦しさとは別に、もう一つ違う重さがあった。
空気だ。
曲がる角が増えるごとに、夜気の質が変わっていく。
最初はただの歓楽街だった。
香水と酒の匂い。
湿った熱。
軽い笑い声。
でも、一本裏へ入るごとに、音が薄くなる。
笑い声はまだ聞こえる。
けれど近くない。
遠くで鳴っているのに、壁一枚向こうに押し込められているみたいに届き方が歪んでいる。
その代わりに、別の匂いが混じり始める。
焦げた匂い。
最初は、ごくわずかだった。
店の厨房か何かの残り香かと思う程度の、ありふれた焦げ臭さ。
けれど歩くうちに、それが消えないことに気づく。
油ではない。
煙草とも違う。
乾いた熱がそのまま匂いになったみたいな、喉の奥を擦る臭い。
穂乃香は無意識に息を浅くした。
その時、少し前を歩いていた清磬の足がほんのわずかに緩む。
恒一は何も言わない。
ただ、その緩んだ歩調に合わせて、自分も半歩ぶんだけ速度を落とした。
それだけで、穂乃香はようやく二人の背中に追いつく。
何も言われない。
けれど、その沈黙にかえって胸が詰まる。
また曲がる。
今度は狭い路地だった。
ネオンの色が壁に反射して、濡れたような光の帯を作っている。
その中を、女が一人、足早に通り過ぎていく。
露出の多い服。
高いヒール。
香水の匂い。
ちらりとこちらを見る。
いや、見ようとして、途中でやめたようにも見えた。
目が合う前に、すぐに逸れる。
そのまま歩幅を早めて、路地を抜けていく。
次にすれ違ったのも女だった。
その次も。
派手な服。
濃い化粧。
爪にだけネオンの色が映る。
笑っているようで、笑っていない。
皆、長くはこっちを見ない。
見ないようにして、通り過ぎる。
穂乃香はわずかに眉を寄せた。
男の姿が、妙に少ない。
夜の街なのに。
こういう場所なら、むしろ男の方が多くてもおかしくないはずなのに。
おかしい。
その違和感が形になった瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
見鬼の感覚だった。
誰かに見られている、というのとも違う。
もっと広くて、薄い。
空間そのものが、誰かの気配を覚えているみたいな感覚。
穂乃香は恒一の背中を見る。
恒一は振り返らない。
ただ進む。
清磬は前を向いたまま、ほんの少しだけ顎を引いている。
たぶん、同じものを感じている。
路地がさらに細くなる。
壁際に黒い跡が見えた。
近づいて初めて、それが焼け跡だと分かる。
塗装がめくれ、下のコンクリートまで焦げていた。
そのすぐ横では、金属の配管が熱で歪んでいる。
恒一は止まらない。
けれど、その視線だけが短くそこを撫でた。
また一歩、また一歩。
焦げた匂いが濃くなる。
息を吸うと、喉の奥が少し痛い。
表通りの光はもうほとんど届かない。
それでも完全な暗闇ではなく、頭上の看板の残り光だけが、路地の角を鈍く染めていた。
その光の下で、恒一が足を止めた。
穂乃香もそこで止まる。
胸が上下する。
呼吸の乱れを抑えようとして、一度だけ唇を噛んだ。
目の前には、ビルとビルの隙間があった。
道と呼ぶには狭い。
それでも人は通れる。
ただ、奥の方まで光が届いていない。
暗い。
その暗がりを見た瞬間、穂乃香の喉がひゅっと細くなる。
——ここだ。
理由は言えない。
でも分かる。
ここから先だけ、空気が違う。
重い。
乾いている。
焦げた匂いが、まるで壁の内側から染み出しているみたいに濃い。
清磬がその暗がりを見つめたまま、小さく言った。
「……ここでは長嘯は使えない」
声は静かだった。
けれど、その一言で場の輪郭がはっきりする。
戦う場所なのだと、穂乃香にも分かった。
恒一は何も言わない。
ただ、半歩だけ前へ出る。
その時だった。
頭の上から、笑うような声が落ちてきた。




