青幇の報告
――陳偉明視点――
夜の熱は、通りを一本曲がっても消えなかった。
昼間に溜め込んだ熱気がアスファルトからじわじわと戻ってきて、背中に薄く汗が張りつく。
ネオンの色が濡れた路面に滲み、遠くの笑い声が風にちぎれて流れていく。
陳偉明は歩幅を変えずに、その古い家の前で足を止めた。
灯りは強くない。
だが、この家の前だけ、通りのざわめきがわずかに遠い。
扉を叩く。
すぐに返事が来た。
「入れ」
戸を開けて一歩入った瞬間、陳はわずかにまばたきをした。
背中に張り付いていた汗が、すっと引く。
冷房の冷気ではない。
むしろ温度そのものは、外と大きく変わらないはずだった。
ただ、空気の質だけが違う。
湿気が薄い。
呼吸が静かに落ちる。
(……相変わらずだ)
この家に入るたび、同じことを思う。
ここは街の中にあるくせに、街の流れから半歩だけ外れている。
視線を上げる。
机に向かっていたのは恒一だった。
相変わらず、年齢の見えない顔をしている。
「お時間をいただき、ありがとうございます。師父」
陳は頭を下げた。
そのまま、部屋の奥に目をやる。
女が二人いた。
最初に目に入ったのは、美しい白い髪と白い道袍をまとった少女だった。
年の頃は中学生から高校に上がる手前くらいに見える。
だが、その見た目より先に、気配が来る。
空気が薄く張る。
肌に触れずに距離だけを測られるような感覚。
陳は一瞬で理解して、すぐに視線を外した。
(……そういう類か)
触れない方がいい。
聞かない方がいい。
この家では、それが正しい。
もう一人にも目が行く。
だが、そこでほんのわずかに思考が止まった。
(……誰だ)
見覚えがない、と思ったのは一瞬だった。
眼鏡がない。
髪型も、前に見た時と違う。
それだけで顔の印象が妙に変わっている。
萃華あたりが弄ったのだろう、と直感するには少し時間が要った。
少女が小さく会釈した。
「……この間はどうも」
その声で、陳はようやく思い当たる。
(……あの時の娘か)
前にここで見た時より、雰囲気が違う。
ただ眼鏡を外しただけではない。髪も、立ち方も、目の置き方も違っている。
一瞬わからなかった自分に、陳は内心で小さく息をついた。
(……だが)
(聞く話じゃない)
「……ああ。その節は」
それだけ返して、鞄を机の上に置く。
恒一はすでに視線を向けていた。
「報告か」
「ええ」
封筒を開き、資料を広げる。
焦げた壁。
崩れた看板。
歪んだ金属柵。
どれも夜の街では事故として片づけられそうな写真ばかりだ。
だが、枚数が多い。
「警察の扱いは事故です。小規模火災、ガス爆発、酔客同士の揉め事。表向きはそうなっています」
写真を一枚、ずらす。
「ですが、偏りがある」
恒一は何も言わない。
その沈黙に促されるように、陳は続けた。
「焼け方が雑です。必要な場所だけじゃない。壁でも、床でも、看板でも、手近なものをそのまま叩き壊したみたいな痕が多い」
もう一枚。
「それと、妙に女の出入りが偏ってる」
穂乃香の視線がわずかに上がるのが分かった。
「歓楽街ですから、女が多いこと自体は不思議じゃない。ですが、この一帯だけ、妙に偏っている。逆に男の足が止まる。近づかない」
写真では分からない部分を、言葉で補う。
「現場に行った連中の話だと、夜になるほど焦げた匂いが濃くなるそうです。火は消えてるのに、空気だけ乾いている、とも」
恒一がそこで手を伸ばした。
引き出しから地図を出し、机の上に広げる。
写真を一枚ずつ置いていく。
焼け跡。
崩れた塀。
爆発の跡。
陳は黙った。
こういう時、師父は余計な説明を嫌う。
事実を置けばいい。
あとは見る側が見る。
恒一の指が地図の上を滑る。
止まる。
鉛筆が走る。
円ではない。
囲い込むような線。
「……囲ってるな」
低い声だった。
陳は眉をわずかに動かす。
「囲っている?」
問い返しても、恒一はすぐには答えない。
写真と地図を見比べ、鉛筆を置く。
「人間のやり方じゃない」
短く、それだけ言う。
紙を一枚取る。
細く折る。
何かを書きつけ、指先で弾いた。
紙兵。
それは小さな音も立てず、空気の中へ消えた。
部屋が静かになる。
外ではまだ車が通っているはずなのに、その音がここまでは届かない。
聞こえるのは、誰かの呼吸だけだ。
数秒。
恒一の目がわずかに細まる。
「……一箇所だけ濃い」
地図の一点を指で叩く。
ビルに挟まれた、細い路地だった。
陳が身を少し乗り出す。
「そこは——」
「人が避ける」
恒一が言う。
それから視線を動かし、穂乃香を見る。
「見る必要がある」
その言葉に、穂乃香の肩がかすかに強張った。
けれど次の瞬間には、小さく頷いている。
「……行きます」
恒一は机の上の符を一枚取った。
折り、指先で軽く叩く。
符が淡く光る。
少し間を置いて、空気の向こうから女の声が返ってきた。
「……どうしたの?」
萃華だ。
「穂乃香を連れて行く」
沈黙。
「危ない?」
「前には出さない」
また、短い間。
それから、少し笑ったような気配だけが届く。
「……ならいいわ」
一拍置いて、
「邪魔しないわよ〜」
符の光が消えた。
恒一が立ち上がる。
「行くぞ」
それだけだった。
白い道袍の少女——清磬が、音もなく動く。
穂乃香もそれに続く。
陳は資料をまとめながら、小さく息を吐いた。
(……やっぱり、普通の仕事じゃない)
だが、それでいい。
この家に持ち込まれる時点で、そういう話なのだ。
「周辺の動きは、こちらで押さえておきます」
恒一は頷いただけだった。
外へ出れば、また夜の熱が戻ってくるだろう。
だが今はまだ、この家の空気だけが静かだった。




