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日常の誤差

 チャイムの音が、少しだけ遠く聞こえた。


 教室は、いつも通りだった。

 窓際の席。

 朝のざわめき。

 机に置いた鞄の重さ。


 何も、変わっていない。


 ……はずなのに。


 ノートを開く指が、一拍遅れる。

 シャープペンの先が、紙の上で止まる。


 (……あれ?)


 文字を書こうとして、何を書こうとしていたのか、分からなくなる。


 深呼吸をひとつ。

 大丈夫。

 授業は、ちゃんと始まっている。


 黒板の文字を追う。

 理解は、できる。


 ――でも。


 視線が、無意識に、廊下の方へ逸れた。


 そこに、誰かがいるわけじゃない。

 来る予定も、ない。


 それなのに、

 「位置」を確認するみたいに、目が動いてしまう。


 昨日の夜の感覚が、まだ、身体の奥に残っていた。


 見られていないのに、

 測られていた、あの感じ。


 視線じゃない。

 存在の配置。


 (……気にしすぎ)


 そう思って、視線を戻す。


 けれど、今度は、周囲の音が少し大きい。

 椅子を引く音。

 紙が擦れる音。

 誰かの笑い声。


 全部、知っているはずの音なのに、距離感が、合わない。


 昼休み。


 ひなたが、いつも通り声をかけてくる。


 「ねえ、今日ちょっと静かじゃない?」


 責めるでもなく、探るでもなく。


 ただ、確認するみたいな言い方。


 穂乃香は、一瞬だけ、言葉に詰まった。


 「……そう、かな」


 自分でも、曖昧な返事だと思う。


 ひなたは、それ以上踏み込まない。

 「そっか」とだけ言って、話題を変える。


 その距離感が、ありがたい。


 なのに。


 (……戻れない)


 何に、とは言えない。

 ただ、昨日までの“普通”に。


 放課後。


 帰り道の足取りが、少し遅くなる。

 無意識に、周囲との距離を取っている自分に気づく。


 誰も、何も、していないのに。


 (私……)


 考えかけて、やめた。


 今、考えたら、言葉にしてしまいそうだったから。


 家の前で、立ち止まる。

 扉を開ける前に、もう一度、周囲を見る。


 確認。

 位置。

 距離。


 ――昨日、感じたことと、同じ動き。


 その事実に、胸が少しだけ、重くなる。


 穂乃香は、まだ何も選んでいない。

 何も、決めていない。


 それでも。


 日常は、もう

 完全には同じ形で戻ってくれない

 ――そんな気がしていた。

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