重くなる教室
――穂乃香視点――
朝の教室は、いつもと同じはずだった。
チャイムが鳴り、席に着く。
机の表面は少し冷たく、椅子を引く音が床に響く。窓の外では、校庭の木が風に揺れていた。
――なのに。
胸の奥が、きゅっと縮む。
気づいた時には、呼吸が浅くなっていた。
吸っているはずなのに、胸が広がらない。肺の奥まで空気が届かない感じがする。
大丈夫。
そう思って、深く息を吸おうとする。
……入らない。
教室には空気がある。
人の声も、物音も、いつも通り聞こえている。
それなのに、私の体だけが、うまく呼吸できていない。
ノートを開き、シャープペンを握る。
黒板の文字は見えている。先生の声も聞こえる。
でも、内容が頭に残らない。
視界の端で、何かが揺れた気がした。
振り向いても、誰もいない。
机と机の間、ロッカーの影、天井の隅。
――いないはずの“余白”が、埋まっている。
そんな感覚だけが、確かにあった。
誰かが、小さく舌打ちをする。
それだけで、心臓が跳ねる。
別の誰かが椅子を乱暴に引く音がして、背中が強張った。
不良っぽい男子たちの声が、いつもより荒れている。
大声じゃない。
先生に叱られるほどでもない。
でも、言葉の端々が刺々しい。
私は、無意識のうちに背中を丸めていた。
机と椅子の間が、いつもより狭い。
天井が、少し低く感じる。
ここから、逃げられない。
そんな錯覚が、じわじわと広がっていく。
斜め後ろの席を見る。
立花恒一は、変わらずそこにいた。
姿勢も、表情も、朝から何一つ変わらない。
周囲がざわついているのに、彼の周りだけ、切り取られたみたいに静かだった。
どうして、平気なの。
そう思った瞬間、視界の端で影が一つ、彼の背後に近づいた。
私は、思わず息を止める。
影は、途中で揺れ、足踏みするように留まった。
それ以上、近づけない。
――寄れない?
理由は分からない。
ただ、それが余計に怖かった。
昼休みになっても、教室の空気は重いままだった。
冗談めかしたからかいに、乾いた笑い声が混じる。
誰かの苛立ちが、誰かに伝染していく。
胸の奥が締め付けられ、
私は何度も、無意識に呼吸を数えていた。
一つ。
二つ。
途中で、分からなくなる。
また、あの夜みたいになる。
そんな恐怖が、確かな重さを持って積もっていった。
午後の授業が始まった。
教室に入った瞬間、私は小さく瞬きをした。
……軽い。
さっきまで、胸に乗っていた重りが、少しだけ外れている。
息を吸うと、今度は胸がきちんと広がった。
完全に楽になったわけじゃない。
鼓動はまだ速いし、体はだるい。
それでも。
さっきよりは、確実に息ができる。
教室の広さが、元に戻った気がする。
天井も、低くない。
不良たちの声も、少しだけ丸くなっていた。
苛立ちが消えたわけじゃない。でも、刺は引いている。
私は、周囲を見回した。
誰も、特別なことはしていない。
先生も、生徒も、いつも通り。
――なのに。
何かが変わった。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ、胸の奥に残った疲れだけが、
「さっきまで、確かに異常だった」
と教えてくれていた。
私は、ゆっくりとペンを動かしながら、
この軽さが、どれくらい続くのかを考えていた。




