戻るもの、残るもの
朝の教室は、いつも通りだった。
机の並びも、窓から入る光も、特別なところは何もない。
でも。
ひとつだけ、違う。
「おはよー」
少し遅れて、ひなたが教室に入ってきた。
声は、いつもより少しだけ小さい。
けれど、顔色は昨日よりずっといい。
「……大丈夫?」
私が聞くと、ひなたは笑った。
「うん。
なんか昨日は本当に一瞬だったみたい」
一瞬。
その言い方に、胸がちくりとする。
「急に寒くなってさ、
目の前がぐらっとして」
「でも、すぐ良くなった」
そう言って、肩をすくめる。
それ以上、深く掘り下げようとはしない。
できない、のかもしれない。
ひなた自身、
何が起きたのか分かっていないのだから。
「病院は?」
「行ったよ。
異常なし、だって」
異常なし。
それが、一番異常な答えだと、私は思ってしまう。
「最近さ」
ひなたが、机に肘をついた。
「倒れる人の話、減ったよね」
「……そうだね」
「なんだったんだろ」
首を傾げて、すぐに興味を失ったように前を向く。
それでいい。
それが、普通の反応だ。
誰も、自分が“巻き込まれた”なんて思わない。
休み時間。
廊下を歩くと、聞こえてくる声も変わっていた。
「最近、静かじゃない?」
「噂、なくなったよね」
気分が悪くなる人。
倒れる人。
あれだけあった話が、嘘みたいに消えている。
理由を知る人はいない。
知る必要も、ない。
私は、窓際の席から校庭を見下ろす。
そこには、いつも通りの風景が広がっている。
ひなたは、無事だ。
それだけで、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
でも。
同時に、違和感も残っている。
——何かが、確かに起きた。
——そして、終わった。
その境目が、はっきりしすぎている。
恒一は、今日も普段通りだ。
いつもと変わらない距離。
変わらない声。
でも、私は知っている。
あの夜、彼はどこかに行っていた。
そして、戻ってきた。
何をしたのかは、聞かない。
聞いてはいけない気がする。
ひなたは、笑っている。
それが、答えだ。
私は、机の上のノートを開いた。
日常は、戻る。
でも、何もなかったわけじゃない。
そのことだけが、静かに、胸の奥に残っていた。




